まずは一呼吸 5月
Before impatience and irritation carry you away, pause and breathe deeply.
新緑が鮮やかさを増し、太陽の光が心地よい季節を迎えました。その一方で、年度が変わり新たな環境に身を置く方も多いこの季節には、ふと心を落ち着かせることの大切さを考えます。
私たちはつい、がんばらなければと自分を追い詰めがちです。子育て中の親御さん、介護に追われる方、勉学に励む方、職場でプレッシャーを抱えがちな方。多くの人が、焦りを抱えていることでしょう。
仏教では、人間には8万4千の煩悩が湧き起こると説かれます。たくさんの思い煩いが、心をざわつかせて、焦りとなります。そんな時こそ、まず一呼吸。それを、息を吸い込むとともに阿弥陀さまの慈しみの光を心に取り入れ、息を吐き出すとともにお念仏をとなえ、煩悩や焦りを外へ放つイメージで行ってみてはいかがでしょう。
私自身、法事中にトラブルに見舞われ、動揺したことがありました。その際、ご本尊阿弥陀如来さまの前で深く息を吸い、南無阿弥陀仏ととなえました。一呼吸置くことで、冷静になりトラブルも対応することができました。無事に法事を終えることができた時、阿弥陀さまの大きな優しさに包まれていることを思い出し、いつも私たちを見守り、支えてくださっていることに気づきました。
そしてこのような呼吸をくり返すことで、私たちの考え方も変わって来るのではないでしょうか。定期的にお墓参りにいらっしゃる50代の男性は、毎朝お仏壇の前で手を合わせお念仏をとなえているそうです。「たとえどんなに忙しくても南無阿弥陀仏。そうすることで物事を落ち着いて考えられるようになった」と、お話ししてくださる表情はとても穏やかでした。
がんばることはもちろん大切ですが、がんばりすぎてはかえって自分を苦しめてしまいます。一呼吸で立ち止まり、お念仏で仏さまの慈悲を感じる。忙しい日々をお過ごしのことと思いますが、ぜひ試してみてください。阿弥陀さまは、私たちのすべてを受け止めてくださいます。がんばりすぎた自分も、焦った自分もそのままに、まず一呼吸、そしてお念仏。5月の新緑のように、きっと今日という日が、少し優しく、穏やかになるはずです。
(千葉県浦安市 大蓮寺 江口直定)
それでも花は咲く 4月
If the present seems daunting, press forward.With time, good things will come.
春と申しますと、皆さまはどのような物事を思い浮かべますでしょうか。新たな門出のシーズンらしく、卒業式や入学式でしょうか。鯉のぼりやひな人形などの季節のイベントでしょうか。はたまた花粉症のような苦しいことでしょうか。いろいろなものが考えられますが、桜を思い浮かべる方も多いのではないのでしょうか。仏教において、桜というのはしばしば「諸行無常」の摂理を表すものとされています。春先に美しく咲こうとも、瞬く間にその花弁を散らし、晩春のころには青々とした葉をつけた樹木へと変化していくその様が、すべてのもの・ことは常に移ろいゆき、変わらないものなど決してない、というこの世の真理を象徴しているかのようだからです。
何年か前、お彼岸の時期に早くも桜が満開近くになった年がありました。ああ、今年は暖かいもんな、などと思っていた矢先、台風と見紛うような強い風雨がその桜並木を襲い、咲いた花の8割強を一日のうちに吹き飛ばしていってしまいました。花が散ってしまった桜の木を見て、筆舌に尽くしがたい寂寥感に近い感情が湧き上がったと同時に、ああ、これか、と「諸行無常」の理を実感したことを覚えています。
その年は散ってしまった桜の木々も、春に青葉を茂らせ、灼熱の夏を耐え抜き、実りの秋をこえ、冬の厳しさをもこらえて、翌年の春にはまた綺麗な花々を咲かせます。人の人生も、これと同じではないでしょうか。人生山あり谷ありと申しますように、我々の暮らしの中では大小様々な危機や障害に遭遇してしまいます。その中で堪えがたい苦しみにあい、このまま事態が好転せず、苦しみ続けることになるのではないだろうか、と錯覚してしまうこともあるかもしれません。しかし、蝶の羽ばたきが別の場所で嵐をもたらすように、物事は何がきっかけで転んでいくかは、だれにも知り得ません。もし、そのような事態に陥ってしまっても、そのまま苦しみが続いていくことは決してないのです。悪いこととは連鎖するものだとよく言いますが、散った桜が翌年にまた咲き誇るように、耐え忍び、諦めないことで、また必ず春は訪れ花を咲かせます。同じように私たちも好機にて、これまでの苦しみが糧となり、良い結果に繋がるのではないでしょうか。
(山梨県山梨市 光明寺 岩間永純)
春のさえずり身を軽く 3月
Let spring birdsong bring lightness to body and soul.
境内の梅の枝に小鳥たちが集まってくると、春の気配が漂い始めます。軽やかなさえずりを聞いていると、冬の間着込んでいた重いコートを脱いだときのような、心が軽くなる感覚を覚えます。
先日、ある檀家の男性がお参りに見えました。長年、認知症のお母さまの介護に献身的に尽くした方です。お母さまが亡くなられて半年ほど経ったころ、その方はこう話してくれました。
「母の介護をしているときは、確かに大変でした。朝から晩まで気の休む暇もありません。でもいま思えば、あれが私の生きる支えだったのです」
お母さまが亡くなられた直後、彼は深い喪失感に襲われたといいます。毎日の生活の中心だった介護がなくなり、ぽっかりと心に穴が開いたような感覚です。朝起きても、これから何をすればいいのか、目的が見つからないのです。ある日、親戚のおばさんに「何のために生きているのか分からない」と漏らしてしまったそうです。
するとおばさんから、真剣な顔で「そんなこと言ったら、お母さんが怒るよ。あなたに幸せになってほしいと思って旅立たれたのに」と叱られたそうです。
その言葉が、彼の心の奥深くに残ったといいます。すぐに気持ちが晴れたわけではありません。でも日々の暮らしの中で、ふとした瞬間にその言葉を思い出すようになりました。母は自分が前を向いて生きることを願っているはずだ。そう思えるようになってから、彼は少しずつ、抱えていたものを手放すことができるようになりました。
阿弥陀さまは、どのような者も決して見捨てず、必ず救うと誓われました。そのみ心が私たちの心の支えとなり、すべてを自分でコントロールしようとする執着が和らぎ、安らぎを得ることができるのです。人は生きていく中でさまざまな重荷を背負います。「南無阿弥陀仏」ととなえるとき、一人で背負い込んでいたその重荷を、大きな慈悲に委ねることができます。
その檀家さんは今、穏やかな表情で日々を過ごしておられます。春の鳥たちが、何も持たずに軽やかに空を舞うように、私たちも阿弥陀さまの慈悲に包まれ、心穏やかに生きることができます。新しい季節の訪れとともに、心の重荷を下ろし、念仏とともに軽やかに歩んでいきたいものです。
(東京都台東区 正定寺 原善順)
感謝も不満も同じ口から 2月
Before you decide what is good or bad, remember to keep an open mind.
昨年1月、私が会長を務めている石見教区浄土宗青年会で念仏行脚を行いました。これは石見教区にある浄土宗二祖聖光上人に由来する大願寺と三祖良忠上人に由来する良忠寺の間を、法灯を持ち念仏をとなえながら歩き、縁を結ぶものです。
法然上人の念仏のみ教えを託した法灯を頂いて行った念仏行脚、浄土宗開宗850年慶讃事業の法灯リレーに着想を得た企画で、法然上人の念仏のみ教えが、二祖、三祖へと受け継がれる様をイメージし、また令和6年の能登半島地震を念頭に置いた托鉢でもあり、大願寺から良忠寺までの約80キロを浄財を募りながら2日かけて歩きました。
開始から10キロあたりでは、まだまだ余裕がありました。しかし、30キロに達するとそれもなくなり、徐々に運動不足の足を引きずるような歩みになります。頭の中を巡っているのは「土がどこかにないだろうか」というものぐらいでした。硬いアスファルトの上を歩くよりも、少しでもクッション性のある地面を探していたのです。
こうなると口をついて出そうになる言葉は不満ばかりです。自分を奮い立たせるような言葉は思い浮かびません。お念仏をおとなえしているので実際に不満を口にすることはありませんが、仮に本心の会話をしても、自分の体面を保つための、自己都合の言葉で他者を不快にさせていたと思います。
しかし、その心が様変わりすることもありました。それはお檀家さんを中心とした、地域の皆さまの姿です。沿道やご自宅前で手を合わせている姿が、なんとか体の痛みを堪えて頭を下げて感謝の言葉を口にし、あるいはお念仏をはっきりとおとなえするよう、姿勢を正すきっかけとなりました。もちろん、不満が解消して心が完全に清浄になったとは到底言えません。しかし、少なくとも口から出たのは自己都合でない本心からの感謝の言葉でした。
ともあれ、私たちは約80キロの念仏行脚を完遂できました。感謝も不満も同じ口から出るものです。大変な時はつい不満を口にしてしまいがちですが、沿道や自宅前に立ち、手を合わせ私たちを支えてくれた方のような、多くの方々に支えられているという事実に目を向けることで、より多くの感謝の言葉が出るようになるのではないでしょうか。
(島根県大田市 大願寺 山崎拓馬)
良い目標は この一年を輝かす 1月
Set worthwhile goals and work toward them daily, and this year will be fulfilling.
「一年の計は元旦にあり」は、年初めによく使われる言葉です。新年を迎えると、多くの人が「今年こそは」と願いを込めて目標を掲げます。しかし、その目標が必ずしも達成されるわけではなく、途中で挫折して苦しみを覚えることも少なくありません。
法然上人は、凡夫の心は移ろいやすく、まるで猿のようにあちこちへ散って落ち着かないと説かれました。せっかく立てた目標も、日常の忙しさや誘惑に押し流され、気づけば忘れてしまう。そんな経験をしてきた方も多いのではないでしょうか。
私は学校に勤務しているのですが、「毎日帰宅後に勉強する」「スマホを部屋に持ち込まない」といった目標を立てながら、思うように続けられず悩む生徒の姿を見かけます。かくいう私自身も、自分の目標が三日坊主に終わる度に、その未熟さを痛感しています。
アジア男子史上最高のプロテニスプレイヤーとして呼び声高い錦織圭選手には、苦手な質問があるそうです。それは、「何年後までに、何を達成したいというような目標設定はありますか?」という、少し先の未来を問うものです。錦織選手は、それに対して、「そんなに遠くのことは見ず、自分のモチベーションになるような少し先の目標を立ててやってきた」と述べています。昨日よりも、今日の自分が少しでも先に進めるような目標を積み上げる。その結果、錦織選手はアジア人男子として初めてテニスの四大大会決勝に進出し、世界ランキング4位という偉業を成し遂げました。
法然上人は『選択集』の中で、念仏を継続するために、1日にとなえる念仏の数を定めることを勧めています。しかし、そこで重要なのは数そのものではなく、日々の目標を掲げて念仏を続けていく姿勢の大切さを説かれている点です。遠すぎる未来を思い描くよりも、今日どう生きるかを意識し、小さな目標を積み重ねる。目標を立てても、思うように続けられないことは誰にでもありますが、志を立て、歩みを続けるその姿勢が重要なのではないでしょうか。新しい年を迎えた今こそ、「昨日より今日を少し良くする」ための小さな目標を掲げてみませんか。小さな目標を積み重ね、2026年を輝かしい良い1年にしてまいりましょう
(茨城県古河市 本願寺 峯崎就裕)
我行精進 忍終不悔 12月
When you have done your best, there are no regrets.
高倉健さんの座右の銘としても知られる「我行精進 忍終不悔」。それは浄土宗が大切にする経典『仏説無量寿経』の中にある「假令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」という一節です。意訳すれば「たとえどんな困難に身を沈めても、悟りを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない」という、仏道を歩む者の揺るぎない覚悟を示すお言葉です。このお言葉を目にするたび、「私は日々、悔いのないように生きているだろうか?」と自問してしまいます。
数年前、一つの出来事が私自身の僧侶としてのあり方を問いました。いつもの月参りでお檀家さんのお家へ伺った時のことです。玄関を開けると、いつも出迎えてくださるはずの奥さまが倒れていたのです。すぐに救急車を呼び病院へ搬送されましたが、ついこの間まで元気な姿だった方が帰らぬ人となってしまいました。「私は毎月会うこの人に僧侶として何かできていたのかな?」と自問し「何もできていなかったのでは…」と後悔の念が生まれたのです。
この後悔をきっかけに、私はあることを始めました。月参りでお家から出る前に、お檀家さんと向かい合い、心を込めて十念することにしたのです。「このお念仏が、この方と交わす最後の十念になるかもしれない」と、心で念じながらとなえています。
今年メジャー殿堂入りを果たされたイチロー選手は引退時に「後悔なんてあろうはずがない」と言いました。生活全てを野球に捧げ、己を鍛え上げ全てをやり切った人だけが言える言葉でしょう。さまざまな偉業を成し遂げ「努力の天才」と称されたイチロー選手ですが、「小さなことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道」という言葉も残されています 私たち仏道を歩む者においても同じ普遍的な真理ではないでしょうか。どんな大きな「往生」という目標も、日々の地道なお念仏という一歩の先にしかありません。私たちにとって、法然上人が説かれたお念仏こそ、確かな「我行精進」と捉えることができるのではないでしょうか。常に後悔と背中合わせの私ですが、日々の十念を怠ることなく、お念仏とともに「一生懸命生き切った、悔いはない!」と往生させていただきたいと願うばかりです。
(兵庫県尼崎市 光明寺 柴田大船)
見えないけれど 大切なもの 11月
Not everything that is important can be seen.
私はハワイ州オアフ島のハワイ浄土宗別院とカウアイ島のカパア浄土院、コロア浄土院の3カ寺で開教使として務めております。
カウアイ島のお檀家さまでふみさん(仮名)という90歳の女性がいます。この方は少し認知症が進んでおり、最近起きたことをほとんど覚えていません。昨年旦那さまを亡くされたのですが、そのこともよく忘れてしまいます。
ふみさん夫妻は、ハワイ教区の檀信徒大会で出会い、結婚。それから60年以上連れ添った筋金入りの浄土宗檀信徒です。カパア浄土院では、月に1回日曜礼拝を行っており、これにご夫婦で毎月欠かすことなく参拝して、長年にわたりカパア浄土院を支えてくださった功労者でもあります。
ふみさんは朝起きると娘さんに、「夫はどこにいるの?」とよく尋ねるそうです。娘さんが「お父さんは去年亡くなったよ」と返事すると、まるで初めてその事実を知ったかのように泣いて悲しむと言います。娘さんもその姿を見るたびに、心が痛むと話し、私もこのお話を伺った時にとても心が苦しくなりました。大切な人が亡くなる悲しみや苦しみは計り知れません。それが毎日繰り返されると想像するだけで心が締め付けられる思いです。
ふみさんが旦那さまの逝去を悲しんでいると、娘さんは仏壇の前にふみさんを連れて行くそうです。そこには旦那さまの遺影やお位牌が祀ってあるので、ふみさんはそこで旦那さまの逝去を認識されます。そしてそこから旦那さまのことを思い、一生懸命にお念仏をおとなえして、旦那さまの逝去を受け入れるそうです。
60年以上もご夫婦で一緒にとなえてきたお念仏なので、「南無阿弥陀仏」とおとなえすることによって、まるで旦那さまが横にいて一緒にいるかのように思えると話してくれました。お念仏をおとなえした後は、「阿弥陀さまの温かい慈しみ」によって、こころの安らぎや平穏を得て、旦那さまの逝去を受け入れることができるのでしょう。
そこに長年寄り添い支え合った、ご夫妻の深い愛情とオハナ、阿弥陀さまへの信仰の尊さを学ぶことができます。
目には見えないのですが、毎日のお念仏や、他者への心遣いなどの日常の小さな行動を積み重ねることで、慈悲の心を見いだすことができるのです。
(ハワイ ハワイ浄土宗別院 髙野明宏)
右は仏 左は私 合わす掌 10月
When you bring your hands together in prayer, you bring the Buddha and yourself together.
今年のゴールデンウイークに小学校の同級生から連絡が入りました。コロナが落ち着いたので、6年生の時に埋めたタイムカプセルを掘り起こすという内容でした。
有志で掘り起こし、そこから同級生のもとへ届けるということで、私のところに届いたのは6月の終わり。入っていた当時の手紙を見ると、乱筆でしたが、内容は素直にその時の想いを書き残していました。
今はこの素直な気持ちを忘れ、年を重ねるなかで、色々なことを疑いの目で見たり、人の揚げ足を取ったり、さまざまな環境に流されている自分を痛感しました。自分の手紙を見て、物事と真っすぐ向き合うことの大切さを過去の私に学びました。
皆さまも幼い時は、言われたことを疑わず真っすぐ信じていたのに、大人になり、どこか疑いの心を持ってしまうことがあるのではないでしょうか。
物事に真っすぐ向き合うということは、日々皆さまが本堂、お墓、お仏壇でお参りする時にも大切なことです。
合掌してお参りをする皆さまの西方極楽浄土への往生の願い、亡き大切な方を思い浮かべ、お浄土で再会を果たしたいという気持ち、またご先祖さまへの追善の回向や供養。これは本当にありがたく尊いものです。しかし、合掌をしていても暑いなあ、お腹すいたなあと、余計なことが頭をよぎり、そういった想いと真っすぐ向き合えていないことはありませんか。
今月の標語は、仏さま、ご先祖さまなどに尊敬・感謝の気持ちを捧げる際に自然と行う「合掌」を表しています。
合掌は、右手が阿弥陀さま、左手が日々迷いの世界を生きる私たちを指します。この二つの手が合わさることにより、仏さまと私たちが真っすぐと向き合い、阿弥陀さまを信じて疑わないということを意味するとも言われます。
合掌の意味を意識しながら手を合わせることで、自然と心が阿弥陀さまや大切な方に向き、さらに、お念仏をとなえることで、その方々に想いを伝えることが出来るのではないでしょうか。
西方極楽浄土にいらっしゃる亡き大切な方は、皆さまのお参りの姿を見守り、お念仏の声をお聞きになってくださいます。そのことに喜びを感じ、手を合わせ、お念仏を一心におとなえいたしましょう。
(神奈川県横浜市 大光院 宮林成彦)
備えは今から 9月
The time to get ready is now.
「泣いていいんだよ」という歌い出しで始まる菅田将暉さんの『虹』という楽曲があります。私の知人に、サビの部分で「一生そばにいるから 一生そばにいて」と歌う彼の声に涙する方がいます。
大切な人を亡くしたらいろいろな反応が出ます。悲しみや後悔、自責の念、眠れない、孤独感、「なぜ」という問いなど、どれも自然な反応ですし、人によって反応の出方は違います。自分のなかでも時と場合によりさまざまな反応が入り混じるものです。
昔から「時薬」とか「日にちが薬」と、時間が経てば乗り越えられるようなことを言う人もいますが、必ずしも時が経てば回復するというものでもありません。
普段は忘れているのに、ふと亡き人のことを思い出して身体や心の調子が悪くなることがあります。亡くなって何年経っても、その人の命日や誕生日などが近づくと、不意に臨終の場面を思い出したり「もういないんだ」と孤独感や喪失感に苛まれて憂鬱になり、しんどくなることがあります。それはどこかおかしいわけでも病気でもなく、自然な反応です。「命日反応」や「記念日症候群」などと言われるものです。
対処方法としては、無理をしないこと、休息をとって気分転換すること、あるいは故人を偲んだり誰かに話を聴いてもらったりすることで楽になることがあります。もう一つ、私はそこに「お念仏を手向ける」ことを加えることをお勧めしています。
亡き方のためにとなえるお念仏というのは、大切な方に今でも私たちができることです。日々の暮らしで亡き方のことを思い出すたび手を合わせてお念仏を手向ける。このお念仏を続けていくことで、私たちの中に積み重なっていくもの…それは、阿弥陀さまからのお慈悲をいただくことです。
最初に記した方は、大切な人を亡くして5年が過ぎています。毎年反応が出ていますが、そのたびにお念仏を手向けていらっしゃいます。
時を経ても寂しさや悲しさはやってきますが、それでいいのです。命日が近づくと反応が起こることを知っていれば、いざ反応が出ても軽く済みます。加えてお念仏を重ねれば、さらに軽くなるでしょう。まだの方も今からお念仏で備えておきましょう。
(広島県広島市 妙慶院 加用雅信)
仏縁を継ぐ夏休み 8月
During Obon, pass along to children what we have received from our ancestors.
長い間入院生活を送っていた父が 令和元年に往生しました。面会に行くたびに、弱っていく姿に辛さを感じる日々。亡くなる三日前、面会に行った時も、酸素マスク姿、かすれた声で「大丈夫か?」と尋ねてきました。自分が大変にもかかわらず、私を心配してくれていたのです。その時、どんなに辛くても私を気にかけてくれる父の姿が、私たちに寄り添ってくださる阿弥陀さまと重なるように感じました。
仏教では仏教では、何かをきっかけに仏さまを感じたり、仏教に触れることを、「仏縁」と言います。
そして、中国唐時代の高僧・善導大師は阿弥陀仏と念仏をとなえる私たちとの間には、親縁、近縁、増上縁の三種の縁「三縁」があると示されました。
親縁とは、私たちが阿弥陀仏の名をとなえるとき、仏さまはそれをお聞きになり、仏さまを礼拝するとき、仏さまはそれをご覧になる。仏さまを思えば、仏さまも私たちを思ってくださる、というもので、法然上人は、「仏も衆生もおや子のごとくなるゆえに、親縁となづく」と私たちと仏さまの間に結ばれる「親しい」関係を親子に例えました。阿弥陀さまは、まるで親のように、私たちが安らかに過ごせるようお護りになってくださっているのです。
近縁とは、私たちがお念仏をとなえ仏さまを見たいと願うとき、仏さまはその声に応じて目の前に現れてくださることを言います。実際に目に見ることはなかなかできませんが、どこにいても、阿弥陀さまは近くに来てくださり安心感を与えてくださるのです。
増上縁とは、お念仏をとなえると仏さまが念仏者の罪を滅してくださることを意味します。これは、罪をなかったことにするのではなく、その罪によ って受ける報いを、阿弥陀さまが働かないようにしてくださるということです。そして、私たちがこの世を去るときには、阿弥陀さまと菩薩さまたちが迎えに来てくださり、浄土往生をかなえてくださるとされています。
阿弥陀さまと私たちを繋ぐのは、「南無阿弥陀仏」のお念仏。
普段は忙しい生活を送っている私たちですが、お盆や夏休みで親戚や小さい子どもと集まる人もいるでしょう。この機会にともにお念仏をおとなえし、若い世代、仏教と縁がなかった方々に仏縁を継いでまいりましょう。
(三重県伊賀市 專念寺 宮嵜美政)