今できることを 少しずつ 2月
Advance little by little, starting with the things you can do now.
私が住む北陸・富山県は日本有数の豪雪地帯として知られています。昔は2メートル近く雪が積もり、家の2階から出入りしたこともあったそうです。ここ数年は昔ほどではないものの短期間で1メートル近くの積雪を観測することもあり、北陸の冬の厳しさを感じています。
たくさんの雪が降るとお寺は大変です。特に、本堂の屋根に積もる雪が凄いのです。屋根の雪は雪そのものの重さで圧縮され、固く重たい雪となって落下し、時に玄関の前を塞いでしまうこともあります。屋根の雪が全部落ちてから山となった雪を動かそうとしても、とても困難です。ですから、私の祖母は屋根の雪が少しでも落ちて積もると、晴れ間を見ては、スコップで雪山を少しずつ崩し、次に雪がたくさん降ったとしても影響があまりでないようにしていたのです。事態が大きくなってから対応することは大変ですが、そうなる前に小さなことでも自分ができる範囲でやり続けることで、成果が出ることを学びました。
法然上人は「一枚起請文」で「ただ一向に念仏すべし」とお示しになっておられます。また上人は、お念仏は「誰でも」「いつでも」「どこででも」できる簡単な行ではあるけれども、南無阿弥陀仏の六字に阿弥陀如来の功徳が全て収められており、厳しく難しい修行ができない私たちにとっては、最期のとき必ず往生浄土がかなう最も優れた行である、とおっしゃっています。しかし私たちの生活を省みた時、仕事や家事に時間を取られてしまいがちで、お浄土から心がはなれ、お念仏がなおざりになっていないでしょうか。今は元気で、健康だから大丈夫と思うかもしれませんが、新型コロナウイルスのまん延や昨今の世界情勢から実感することがあるように私たちの生きるこの世界に「絶対」はありません。
だからこそ私たちは、平生の時から少しずつ最期に向けた準備をしておく必要があります。すなわち、私たちは日常のなか少しずつでもお念仏をおとなえすることで、お浄土に心を向けることが大事なのです。
暦の上では春を迎えました。まだまだ冬の厳しい寒さは続きますが、お念仏をとなえながら、暖かな春の訪れを待ちたいものです。
(富山県射水市 曼陀羅寺 眞岸孝憲)
思いから 行いへ 1月
Right now,take the first step toward achieving the goals you have set.
朝夕の冷え込みも強くなり、朝の布団から離れ難く思う日が多くなりました。何とかぬくもりをふり切って起きるのですが、一度起きてしまえば一日を過ごすのは容易です。しかし、起きようと心に決めて実際に起きる。単純で簡単なことでも我々はそれができないことがあります。
法然上人のご法語に「それ浄土に往生せんと欲わば、心と行との二つ相応すべきなり」(『往生大要抄』)とあり、これを安心起行と申します。安心とは、浄土往生という目標を心に定めること、起行とは、往生のためにお念仏をおとなえすることです。これらが互いに助け合い支え合うことが大切であると説かれています。目標だけで何も行動しなければ、それが達成されることはなく、目標無く行動しても、何かを成すことはできません。起きようと思うだけではまた寝てしまいますし、体を起こしただけで布団から出る意思がなければ、これもまた寝てしまうでしょう。
では、思いをどのように行いへと繋いでいくべきでしょうか。とあるお檀家さんの話ですが、その方はご主人の葬儀からずっと月命日には私と一緒にお経をおとなえしていました。生家が違う宗派で最初は慣れないお経だったそうですが、となえているお念仏が亡きご主人に届いているんだとの想いで、毎回一生懸命におとなえしてくださいました。その方も往生を遂げられましたが、その間一緒にとなえ続け、少しずつ上手になっていき、そのお念仏をとてもありがたく感じました。
このように、思いから行いへ繋げるには、続けられることから行いに移すことです。それは小さな思いを形にすることから始めるのが良いと思います。まずは、心の中で一言お念仏をおとなえしてはいかがでしょう。法然上人は、一日七万遍のお念仏を申したといいます。同じことを成すのは容易ではありませんが、一遍のお念仏から十遍、百遍と増やし続ければ、いずれ、より多くのお念仏をおとなえできるはずです。
机の上を整理する際になむあみだぶつ、散歩前になむあみだぶつ、就寝前になむあみだぶつ。そうすれば大きな目標を定めてなくても、動き始めるきっかけ、後押しになるかもしれません。皆さまにとって、お念仏がそんなきっかけとなってくれれば、とてもありがたいです。
(香川県丸亀市 寿覚院 瀧口悠也)
自分自身に微笑みを 12月
Congratulate yourself on the efforts you made this year and greet the coming year in a new spirit.
師走となり、1日過ぎるのが早く感じるようになりました。今年は去年に引き続きコロナ災禍で自粛や中止になった行事が多くあったなか、善光寺の御開帳がおこなわれるなど少しではありますが、いい方向へと変化しているのかもしれません。
私はお寺での法務のかたわら住職の父と農業をしています。主に桃を栽培していますが、家庭菜園のような形で多くの野菜も育てています。私一人でいくつかの野菜を育てましたが、納得のいくものではありませんでした。しかし、知り合いや親戚にそれを渡した時に、「大きいね」「美味しかったよ」と感謝の言葉をいただきました。
私自身、どうしても他人と比べて「あれはできない」「これはできない」「何でこんなことで失敗するんだろう」と思ってばかりいます。しかし、私が育てた不格好な野菜を渡して感謝の言葉をもらったことで、こんな小さなことでも誰かから認めてもらえる、少しでも喜んでもらえるんだと思いました。そして、少し照れくささもありましたが、微笑んで「こちらこそありがとうございます」と言いました。この感謝は自分自身にも向けて言ったのだと思います。
誰かに感謝できる人は、自分の心に余裕がある人が多いと思います。もし、心に余裕がなければ、誰かから「ありがとう」と感謝されても、素直に受け取れなかったり、言葉遣いや行動が少し荒っぽくなって、相手を悲しませてしまったりするかもしれません。だからこそ、自分自身を大切にすることは誰かに優しくできることにもつながっていくのではないかと思います。
『無量寿経』というお経には、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩であった昔、仏となるために長い間修行していたときのお話があります。この法蔵菩薩の修行のなかで、自分や他人を傷つけず、優しい言葉遣いをし、自分や他人を大切にすることが説かれています。日常生活において困っている人がいれば、優しく接することはもちろん大切です。しかし、私たちは自分自身をあまり大切にできていないように思います。
自分自身を大切にするために、1年の最後に家族や友人、そして自分自身にも「お疲れさま」とねぎらいの言葉をかけ、新たな気持ちで新年を迎えませんか。
(山梨県山梨市 円福寺 齊藤晃道)
じんわり伝わる あたたかみ 11月
Kindnesses received from others sinks deep into your heart.
私のお寺では、十二月に歳末のお参りを行っており、近所のお檀家さんの御自宅を回ります。お檀家さんから、熱いお茶を出していただくことがありますが、そのときは湯呑に手を当てただけで、寒さでかじかんでいた手が解凍されていくような感覚がいたします。じんわりとお茶の温もりが手に伝わってくるのと同時に、お檀家さんからの思いやりの心も伝わってきます。
身近にある温かみに気づけるのは、心身が凍てつくほど冷え込んでいる時です。人生の試練に直面した時や苦しみが満ちた時、心は季節を問わず冷え込みます。今、私は身近な家族が、老いの苦しみ、病の苦しみと戦っている姿を目の当たりにしており、以前にはできていたことが段々できなくなっていく家族を支える側にいます。時間や心に余裕がある時は、待ったり、優しい言葉かけをしたりできますが、時間や心に余裕が無くなると、支えるのが難しくなり、自己嫌悪に陥ることもあります。
そんな時にお念仏を申しますと、阿弥陀さまの優しい眼差しが身近に感じられます。「衆生仏を礼すれば、仏これを見給う。衆生仏を称うれば、仏これを聞き給う。衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給う」と『観無量寿経』を善導大師が注釈した『観経疏』の親縁の解釈から法然上人もお示しです。親縁というのは、阿弥陀さまに対しお念仏をとなえ、敬い、心に念ずれば、阿弥陀さまはその一声一声を受け止めて、お応えしてくださることです。阿弥陀さまも私たちがお念仏を申せば、その様子を見聞きして私たちに慈悲の御心を向けてくださいます。阿弥陀さまは常に慈悲の御心を私たちと同じ熱量で向けてくださっているのです。昼の明るい時の光より、夜の暗闇を照らす光の方がありがたいように、心が苦しい時ほど近くで親しく見守ってくださる阿弥陀さまのありがたみがよくわかります。
お念仏を申すと阿弥陀さまのその優しさを感じて、苦しみで冷えた自分の心がじんわりと温かくなっていきます。苦しみの世界を生きている私たちですが、心がつらいときはどうか阿弥陀さまの慈悲の御心におすがりし、お念仏を申していきましょう。
(岡山県久米郡 淨土院 漆間信宏)
一声一声に想いを託して 10月
The vow of attaining Birth in the Pure Land must always accompany your chanting of Namu Amida Butsu to wards Amida Buddha.
運動の秋。私の住む地域ではこの季節に運動会を行う学校が多くあります。
その中、昨年の運動会で良い結果を残せず泣いて悔しがっていた生徒に先生が「しょうがない、そんなこともあるよ! 次がんばろう!」と声をかけ励ましていたことが心に残っています。彼の悔しい思いはすぐには拭えないでしょうが、いい頃合いで心に響いて前を向ける気がしました。それから私も「しょうがない、そんなこともある!」と口にしています。口にすると気持ちを上向きにしてくれる一言です。
ご主人を亡くされたあるお檀家さんが、いつも十遍のお念仏の後に「ありがたい!」と一言付け加えておとなえをされます。「……なむあみだぶつなーむあみだぶー、ありがたい!」というふうに。私が理由を尋ねると「姑さんもそう言っていたことを思い出して、なんでだろうと真似してみたんです。そうしたら、なんだか具合が良くて癖になりました」と話してくれました。そのお話の中で、一番印象深かったのは「嫌な気分の時に、グチグチ考え続けるより、パッとあきらめて少しでも良い部分を見つけられるようになった」という点でした。この言葉も、心を上向きにしてくれるようです。
法然上人は「浄土に往生せんと欲わば、心と行との二つ、相応すべきなり」(『往生大要抄』)と示されました。
これは、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願うなら、救っていただけるという疑いの無い心と、お念仏をおとなえする修行がどちらも欠けずに一致しなければならない、ということです。阿弥陀仏の救いに出会えた喜びの心がお念仏の声を助け励まし、その声がまた心を助け励まして修行が続くのです。
この世界は良きにつけ悪しきにつけさまざまな縁によってもたらされています。私たちの思い通りになる事もあれば、どうにもならない事もあります。悪い状況で心が乱れた時こそ「しょうがない、そんなこともある!」と一言。心を助け励まし上向きにしてくれます。
先ほどのお檀家さんも、ご主人を亡くされた悲しみから、お念仏のご縁が深まりました。一声一声のお念仏に供養の想いを込め、自分もまた往生できる喜びを噛み締めながら「ありがたい!」と一言付け加えるのは、より明るい気持ちで生活できる秘訣のようです。
(福井県大野市 善導寺 大門哲爾)
充分と思い 日々暮らす 9月
Never take the tranquility of today for granted; be grateful for it always.
「今何か欲しいものはある?」7歳の誕生日が間近に迫った姪に尋ねると「何もいらないよ」と、思いがけない言葉が返ってきました。欲というものがないのだろうかと、驚いたのと同時に、自分が同じ年ごろにはあれやこれやとほしいものだらけであったなぁと、恥ずかしい記憶が思い出されました。
仏教には、少欲知足という教えがあります。欲望はできるだけ少なくし、今あるものに満足し感謝しましょうという教えです。しかしながら、生きていれば欲しいものはたくさんでてきます。お金や地位、名誉、若さなど、細かい願望まで数えればキリがありません。しかもそれら全てを手に入れることなどできるわけがないのです。
これを心得ていないと今度は手に入れられないことに対して怒りや妬みといった心を生じさせ、最終的には自分自身の心を苦しませることになります。お釈迦さまはこのようなことに心を悩ますのであれば、今あるものに満足し感謝して生きるほうがずっと心は健康的だとお示しくださいました。
『世界がもし100人の村だったら』という本があります。この本には世界の約63億人もの人々をもし仮に、100人の村に縮めたら、そこに住む人々は一体どのような生活状況に置かれるかが書かれています。
「100人のうち75人は食べ物の蓄えがあり、雨風をしのぐところがあります。でもあとの25人はそうではありません」、「100人のうち20人は栄養が充分ではなく、そのうち1人は死にそうです」、「もしもあなたが空爆や襲撃、地雷による殺戮や武装集団からの暴行におびえていなければそうでない20人より恵まれています」
ここに書かれていることを目にしても、現在の日本で生きる私たちには、なかなか実感は湧きにくいものですが、まずそのような事実を知り、考えることが大事なのです。そうすれば、朝、目が覚め、仕事や学校に行き、1日を不自由なく過ごし、夜になれば眠りに就く。こういった「あたりまえ」だと思っている生活は、実は私たちが思っている以上に有難いことだと気付くのではないでしょうか。普段何気なく過ごしている日常に感謝の気持ちをもって生活したいものです。
(宮城県仙台市 充国寺 三浦宏純)
ひとりじゃない そばにいるよ 8月
Ancestors are always looking out for you from the Pure Land. Repay them with your gratitude.
今年もコロナ禍でお盆を迎えます。数年前までは、お盆に帰省し家族や親族と会うことが当たり前でしたが、昨今はそれも難しく、コロナ禍以前がとても懐かしく思えます。お盆といえば、ご先祖さまをお迎えし、ご供養する行事ですが、親族や友人と再会することも楽しみの一つであったのではないでしょうか。
以前、あるお檀家さんと話していた時に、お盆の帰省の話になりました。いつもお盆の時期は帰省し、お墓参りの後に親族で食事会をするそうですが、コロナ禍以降は帰れていないとのことでした。お盆の帰省は子どもの楽しみの一つであったし、なにより自分もご先祖さまの供養ができないのが残念だと話しておられました。
法然上人のご法語に「衆生、仏を礼すれば、仏これを見給う。衆生、仏を唱うれば、仏これを聞き給う。衆生、仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給う」というお言葉があります。これは親が子を見守るように私たちの行いや思いを、阿弥陀さまは常に極楽浄土から見ていてくださるということです。阿弥陀さまのいらっしゃる極楽浄土は、お念仏の功徳によって往生された方々がお生まれになる場所。阿弥陀さまと共にご先祖さまも私たちのことを見守ってくださっています。
私たちはより良い将来のため、常に先のことを考えて生きています。しかし過去を振り返ってみると、今の自分があるのはご先祖さまのおかげでもあります。私たちは2人の両親、4人の祖父母、十代前は1024人、二十代前まで遡ると百万人以上のご先祖さまがおられます。もし1人でもいなければ今の自分はいません。当たり前のように生きている自分も、多くの命やご縁によって生かされている、とても有り難いことなのだと思い起こし、ご先祖さまへの感謝の念を深めていただければと思います。
まもなく、コロナ禍での3度目のお盆。まだまだ終わりは見えませんが、少しずつ元の生活に戻りつつあるような気がします。以前のように過ごせるのはもう少し先になるかもしれませんが、これから迎えるお盆には、阿弥陀さまとご先祖さまに感謝の気持ちを込めてお念仏をおとなえいたしましょう。きっと極楽浄土から私たちを見守ってくださいます。
(三重県松阪市 樹敬寺 山下大信)

星空の彼方にあなたを想う 7月
If you think of your loved ones already in the Pure Land as you chant Namu Amida Butsu,they are sure to hear you.
梅雨の時期になり、しばらくすると、近所の子どもたちが保育園や学校で作った短冊付きの笹の葉を持ち帰る姿を見かけるようになります。それを見るともう少しで梅雨が明けるのかなと感じます。
七夕は平安時代ごろに中国から日本に伝わり、当時は芸事の上達を願う宮中行事でしたが、江戸時代になり五節句の一つとして行われることで現在に近い行事となりました。今では短冊に願いごとを書き、笹につける姿をお見掛けします。
先日、近所のお檀家の息子さんが、短冊にたくさんの願い事を書いていた中に「また会おうね」とあったので少し不思議に思い、その子に「誰と会うの?」と尋ねてみました。すると「おじいちゃん」と答えました。
日頃から、職人である祖父の作業場でいつも一緒にいた大好きな祖父でしたが、昨年極楽浄土へ往生されました。葬儀の際には、「おじいちゃんが喜ぶことをして生きていこうね…。一つ、明るく元気に生きよう。二つ、悪いことをしないで善いことをしよう。三つ、みんなと仲良くしようね」とお話をしました。
一周忌の際には、いつもお仏壇の前で手を合わせていた祖父の背中を見ていたお孫さんは、誰に教えられたわけでもなく、自然と手を合わせ南無阿弥陀仏とお念仏をおとなえしていました。声高らかにおとなえをする姿の尊さは、その場にいた私たちを清らかな気持ちにさせてくれ、おじいちゃんにもお念仏の声が届き喜んでいるだろうなと感じました。
信じて仰げるもの、つまり信仰を持って生活をするのと、持たずに生活するのとでは心持ちも変わってくると思います。信仰があるからこそ星空の彼方に人を想うことができますし、気持ちが豊かになるのでしょう。私達も家族や友人に大切に想ってもらえるような生き方をしていきたいものですね。
星空の彼方、はるか西の彼方にあると説かれる極楽浄土。そのお浄土にいる大切な方を想っておとなえするお念仏の声は、距離を超えて届いています。信仰を持って生きること、そしてお念仏の教えに出会えた素晴らしさを多くの方に知っていただき、日々の暮らしが穏やかであるよう、その糧としていただきたいと思うばかりです。
(東京都台東区 念佛院 中野良平)

称えるうちに 雲晴れて 6月
Vowing with a deep mind to attain Birth in the Pure Land while you chant Namu Amida Butsu naturally deepens your faith in Amida Buddha.
「紫陽花や 昨日の誠 今日の嘘」。これは、正岡子規の有名な一句で、人の心の移り変わりを花に喩えて詠んだ句です。
2年以上続くコロナ禍、ウクライナ侵攻、さらには地震や大雨による自然災害など、この時期の曇天のような世情で、心も暗くなってしまいがちではないでしょうか。そのなか、ちょっと自分の心を覗いてみるとどうでしょう。些細なことでカッと怒っていると思えば、今度は楽しく笑っている。毎日さまざまな要因によって心は振り回されています。
仏教では、特に身を滅ぼしてしまう煩悩のことを「三毒」といい、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)の三つを指します。これらの煩悩をどうしても抱えてしまうため、私たちは皆迷いの世界に生きる凡夫なのです。
月参りの際、あるお檀家さんとお話をしていた時のことです。「お念仏はありがたいですね。何かあったらお念仏をとなえながら、仏さまに愚痴を聞いてもらっているんですよ。すると心が軽くなった気がして、気付くと仏さまのお顔が目の前にあるんです。一種のカウンセリングみたいですね」と笑いながらおっしゃっていました。
よくお話を聞いてみると、ご先祖さまやお浄土のことを想ってお念仏をとなえていると、自分自身の悩みや愚痴がだんだんと頭の中を駆け巡り、さらにお念仏を続けると、自然と阿弥陀さまのお顔を見ながらお念仏をするようになったそうです。
宗祖法然上人は、念仏信者からのさまざまな質問に上人がお示しになったお答えをまとめた『一百四十五箇条問答』の中で、「どうしても心に妄念(煩悩)が起きてしまうのをどうしたらよいか」、という問に対し、「ただよくお念仏をしなさい(念仏すれば、妄念も静まりますよ)」とお答えになられました。
私たちは日々生きていくうえで、ついつい心の中を煩悩で曇らせてしまいがちです。しかしながら、一心にお念仏をおとなえするうちに、阿弥陀さまの光明が、心を明るく照らし、晴らしてくださいます。
世情や気候によって、心まで塞がってしまう時機ですが、今こそお念仏をとなえる日々を送ってみてはいかがでしょうか。
(大分市浄土寺 結城文親)

こころの声に 耳を澄まそう 5月
Maybe you are pushing your limits. It's vital to know how them and take a breather now and then.
ある雨の日のことでした。立ち寄った小さな商店、簡単な傘立てが外にありました。その傘立てを利用しようとしたとき、ある不安が心をよぎったのです。「ここに傘を置いたら誰かに盗まれるのではないか」と。
しかし、ずぶ濡れのビニール傘です。商品ひしめく店内に持ち込むのは気が引けます。仕方なくその傘立てに置きましたが、よぎった不安はすぐには消えません。商品を探しながらも、店員さんと話しながらも、外の傘が気になって仕方がありません。気のせいか雨の強さも増してきたように感じます。「傘を欲しがっている人も増えているのではないか」と、そんな微々たることまで気にかかり、妄想が膨らんでいきました。たった十数分のことでしたが、「嫌な予感」は募るばかりです。
会計を済ませ、急ぐ程もない店内を小走りし、外に出て傘立てを見ると、ビニール傘は私の置いた場所にありました。ほっとしながらも、ひとりで勝手に不安になり、安堵している自分の状況に気づきました。
もとより「傘泥棒」は私の想像の産物でした。もちろん注意を払うことは大切ですが、それによって「あの人は私のものを奪うかもしれない」「あの人は私に害を与えるかもしれない」と自ら不安の種を撒いていたのです。
日々の小さな事柄から重大な問題まで、仏教では私たちの心身を悩まし苦しめている根本的原因は等しく「煩悩」であると説きます。煩悩と一口に言っても種々ありますが、その止めどない自らの煩悩を静めて、苦しみ続ける状態から抜け出した方が「仏さま」です。反対にそのような境地から程遠く、悩み苦しみの尽きない私たちを「凡夫」と言います。
「こころの声」はとっさに出てくる「素直な気持ち」です。凡夫である私たちの「こころの声」では誤った判断や無意識に自己中心的な考えが反映されて、かえって苦しみの種になっているかもしれません。ですから、こころの声には「直感的に従う」のではなく、「耳を澄ます」ことが大切なのです。
自分にしか聞き得ない声です。なぜ自分のこころはそのように声をあげるのか。一度落ち着いてその声に耳を澄ませてみませんか。思わぬところに気づきがあるかもしれません。
(奈良市興善寺 森田康仁)
