西願寺(さいがんじ)は、埼玉県草加市にある浄土宗の寺院です。

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浄土宗 西願寺(さいがんじ)

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埼玉県草加市遊馬町(あすまちょう)430 

浄土宗 西願寺

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浄土宗 今月の言葉

こころの声に 耳を澄まそう 5月

Maybe you are pushing your limits. It's vital to know how them and take a breather now and then.

ある雨の日のことでした。立ち寄った小さな商店、簡単な傘立てが外にありました。その傘立てを利用しようとしたとき、ある不安が心をよぎったのです。「ここに傘を置いたら誰かに盗まれるのではないか」と。

しかし、ずぶ濡れのビニール傘です。商品ひしめく店内に持ち込むのは気が引けます。仕方なくその傘立てに置きましたが、よぎった不安はすぐには消えません。商品を探しながらも、店員さんと話しながらも、外の傘が気になって仕方がありません。気のせいか雨の強さも増してきたように感じます。「傘を欲しがっている人も増えているのではないか」と、そんな微々たることまで気にかかり、妄想が膨らんでいきました。たった十数分のことでしたが、「嫌な予感」は募るばかりです。

会計を済ませ、急ぐ程もない店内を小走りし、外に出て傘立てを見ると、ビニール傘は私の置いた場所にありました。ほっとしながらも、ひとりで勝手に不安になり、安堵している自分の状況に気づきました。

もとより「傘泥棒」は私の想像の産物でした。もちろん注意を払うことは大切ですが、それによって「あの人は私のものを奪うかもしれない」「あの人は私に害を与えるかもしれない」と自ら不安の種を撒いていたのです。

日々の小さな事柄から重大な問題まで、仏教では私たちの心身を悩まし苦しめている根本的原因は等しく「煩悩」であると説きます。煩悩と一口に言っても種々ありますが、その止めどない自らの煩悩を静めて、苦しみ続ける状態から抜け出した方が「仏さま」です。反対にそのような境地から程遠く、悩み苦しみの尽きない私たちを「凡夫」と言います。

「こころの声」はとっさに出てくる「素直な気持ち」です。凡夫である私たちの「こころの声」では誤った判断や無意識に自己中心的な考えが反映されて、かえって苦しみの種になっているかもしれません。ですから、こころの声には「直感的に従う」のではなく、「耳を澄ます」ことが大切なのです。

 自分にしか聞き得ない声です。なぜ自分のこころはそのように声をあげるのか。一度落ち着いてその声に耳を澄ませてみませんか。思わぬところに気づきがあるかもしれません。

(奈良市興善寺 森田康仁)

咲いて 誇らず 4月

When things go well, don’t halt but take another step forward.

私たちの日々の生活は多くの人たちの支えによって成り立っています。家族や友人や職場の人など、身の周りにいる人たちはもちろんのこと、自分の知らないところでもあらゆるものに支えられて生かされています。



今年の冬季北京五輪で、スノーボード女子ビッグエアに出場し、日本女子最年少メダリストになった村瀬心椛(ここも)選手はインタビューで「家族や友達やスポンサーの人たちのおかげです。私だけで取れたメダルではないので、皆さんに感謝しかない」とコメント、その姿が大変印象的でした。

目まぐるしく変化する現代社会において、心にゆとりを持つことは難しいものです。時に大きな壁にぶつかったり、やっとの想いで困難を乗り越えられることもあるでしょう。私たちは思うようにいかない日々の繰り返しにより、心のゆとりは削られ、いつしか自分一人の力で世の中を生き抜かなくてはならないと感じることすらあります。



私はそのようなとき、宗祖法然上人が、浄土宗の教えを記された「一枚起請文」にある「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」の一節を思い出します。

法然上人は比叡山で学問を修めていた際、さまざまな経典の中から、「南無阿弥陀仏」とお念仏をおとなえすれば、生きとし生ける者、皆が救われる教えを見出しました。上人は比叡山のなかでも「智恵第一の法然房」と評されるほど優秀でしたが、卓越した知識をもっていても、それを人にひけらかすことはありませんでした。



このことを、今の私たちの生活に置き換えてみるとどうでしょう。社会の荒波に揉まれながら、己の信ずる道を突き進んだ先にある幸せを掴んだとしても、人をないがしろにしたり、さげすんだりしては、築き上げてきたものの、真の価値は見出すことはできません。さらには支えてきてくれた人たちの気持ちを踏みにじることへもつながってしまいます。



法然上人は、すべての人々が救われるための方法を探し、その見つけた答えに対して、ただひたすらに精進されました。だからこそ、800年以上にわたり人々の心に受け継がれてきたのです。上人の教えは今なお人々に篤く信仰されていますが、教えだけでなく、その生き方も学びたいものです。

(長野市淵之坊 若麻績憲義)

縁距離を大切に 3月

While chanting Namu Amida Butsu, you can feel the close presence of Amida Buddha and of dear ones who have gone before.

新型コロナウイルスが日本で確認されて2年が過ぎましたが、いまだ先の見えない現状が続いています。


何とも思っていなかった行動のいちいちをためらうようになったのは私だけではないと思います。感染者が減ったら実家に顔を出しに行こうと思っていても、「うつさない、うつらない」を考えるとどうしても帰郷ができませんでした。やはり家族のことや勤め先、またお参り先であるお檀家さんのご家族を考えると、リスクある行動はより自粛するようになりました。


先日、お檀家さん宅にお参りに行った時の出来事です。例年、必ずおばあさまをはじめ親子三代が集まり、部屋にはたくさんのご家族が揃います。おばあさまは必ず私の隣に座り、全員で先祖供養のお勤めをしておりました。


しかし、今年は部屋におばあさまと息子さまの二人のみで、その後ろにはパソコンが3台。感染拡大を考慮し、家族は全員集まらず画面越しの参加にしたというのです。お焼香の際には、おばあさまが画面の前に香炉を持っていき、代わりにお焼香をされていました。きっと画面の向こうのご家族は、自分がお焼香をしている思いで手を合わせたことでしょう。


いつもならお参り後に家族で外食に行っていたそうですが、それもできませんでした。寂しい気持ちを吐露しながらも、おばあさまは「画面越しでも同じ目的をもって家族全員でお参りできたことは本当にありがたい」と話されました。実際に会えない寂しさがある反面、普及し続けているネット環境や機器の発達によって、画面越しに会うことができる。離れていても心のつながりを感じることができたというおばあさまの言葉に、僧侶として、また帰郷できない一人の人間として、とても感慨深いものがありました。


さて、3月は春彼岸があります。そのお中日には、どこで誰が見ても、太陽が真東から昇り真西に沈みます。沈むその方向に、阿弥陀さまやご先祖さまがいらっしゃる西方極楽浄土があります。現在も集まるのが難しい状況ですが、場所は違えど同じ目的をもって阿弥陀さまとご先祖さまに想いを馳せながらお念仏をおとなえしましょう。


遠く離れていても、お念仏の縁によって心がつながっている。そう感じることができるはずです。

(滋賀県甲賀市 十楽寺 井口浄彦)

 

今こそ よく聴き よく遺す 2月

 

Accept advice given you now and pass it on to the next generation.

 

 

 

まだ寒さの残る2月。「コロナ禍」という言葉を耳にするようになってから早2年が経ちましたが、未だ不自由な生活が続いています。ネットでは匿名での誹謗中傷やデマといったものが話題になりました。未知のウイルスがまん延し、閉鎖的な環境の中で不安やストレスからチクチクと棘を持った心が生まれてきてしまうのも分からなくはありませんが、棘を持った者同士が触れ合ってもそれは互いに傷つけ合うばかりです。





私が勤めているお寺は寺町にあり、周囲には他のご宗派のお寺が多く並んでいます。先日、近くのお寺の前を通りかかると、掲示板にはこんな言葉が書いてありました。





「われ以外みなわが師である」





これは、小説『宮本武蔵』の作者・吉川英治の言葉で、自分以外の人や言葉、物や出来事などあらゆる物事は自分に何かを教えてくれる師であるという意味です。





やはり人は自分自身が大切です。そして、自分を包む「殻」が割れないよう堅くすることを考えがちです。しかし、少し考え方を変えてみると、反対に柔らかくする方法があることに気付きます。跳ね返すのではなく、「吸収する」姿勢です。誰からでも、どんなささいなことからでも学ぶものはあります。そして、吸収したものはまた次の人へと伝えることができます。





仏教のことばに「多聞多見」というものがあります。これは、仏の教えを多く見聞して学問があるという意味で、一般的に知恵があり博識な人のことを指す言葉としても使われます。読んで字のごとく「多くの事を聞き、多くの事を見る」ということですが、単に聞いて見れば良いのではありません。





常にあらゆるものへ学びの心を持ち、謙虚な姿勢でしっかり目と耳と心を傾けることが大切ということです。他者からの言葉へ素直に耳を傾け、受けとめることは簡単なことではありませんが、この一言一言、一期一会のご縁を大切に日々送らせていただくことで少しずつ棘が消えてゆき、心がまあるくなっていくと思います。





「今日はどんな師と出会えるだろうか」と、「多聞多見」の心を大切にして日々の生活を送り、そして得られたものをまた人に伝えていきたいものです。




(茨城県坂東市 常繁寺 船橋了照)

 

 

 

幸せへのスタート 1月

Take one step at a time toward making next year better still.

新型コロナウイルスが猛威を振るうなか、世界規模で多くの人々が亡くなり、私たちの日常生活は一瞬にして崩れ去りました。そうした日々のなかで「幸せ」を実感することは、私自身大変難しいものでありました。


私は、昨年の四月に血栓症を患い、今も投薬による治療を行っています。自由に歩くことや座ること、日常的な動作がままならない苦しみを感じていましたが、病院のエコー検査によって発見することができました。原因が解明された時には、ホッとしたことを憶えています。後に、血栓は体質的にできやすいものであることが判り、従来の日常生活を見直す機会となりました。


私にとって闘病中は、先のみえない暗闇の中にいるようなもので、常に不安がつきまといました。そのなか、主治医の先生、家族や大学院の先生・先輩方、一緒に研究をする仲間や友人が大きな心の支えとなって病気と向き合うことができました。


宗祖法然上人は『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に示される「光明徧照(こうみょうへんじょう) 十方世界(じっぽうせかい) 念仏衆生(ねんぶっしゅじょう) 摂取不捨(せっしゅふしゃ)」の一文を月の光にたとえて、浄土宗の宗歌となっている次のお歌を遺されました。


月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ


これは、阿弥陀さまの慈悲を月の光に喩えられて、お詠みになられたものです。月の光はすべてを分け隔てなく照らしていますが、その光に気付き、月を仰いで感謝する心が起こらなければ、その月の光にあずかることができません。


それと同じように、すべてを救済(きゅうさい)しようとされる阿弥陀さまを仰いで、お念仏をとなえる日暮しを送ることで、日々お見守りにあずかり、浄土への往生(おうじょう)が約束されることから、お念仏が勧められるのです。


暗闇のなかを歩くような現世を生きる私たちにとって、阿弥陀さまとそのお浄土は尊く大きな光であり、法然上人のお示しくださった御詞(おことば)やその教えは、現世を生きる私たちの大きな心の支えであり、道標となるものです。


お念仏をとなえる日々を送りながら、日々の一つひとつが有り難いことを感じて、一年のスタートをきりたいものです。皆さま方の一年が「幸せ」に溢(あふ)れるより良い年になりますように。

(山形県山辺町 浄土寺 小笠原紀彰)

 

見上げる空に 仏のひかり 12月

By keeping Amida Buddha in our thoughts,


Amida Buddha watches over us.

あっという間に12月、皆さまにとって、今年はどんな一年でしたでしょうか?

私はコロナ禍の中で新しい趣味を始めました。それは写真を撮ること。カメラ片手にあちこち歩いてみると、いつもの街並みが少し変わって見えました。よく見たらお洒落な街灯、夕方の時間の美しさ、知っているようで知らなかった花の名前。見方を変えてみたら人生に彩りが増えた気がします。

「今夜はスーパームーン」とニュースで聞いたある夜のこと。寒空の下で月を撮影をする中、ふと「月っていつからあるんだろう?」と疑問に思い、調べてみると、なんと約45億年前に誕生したそうです。月が45億年も前からずっと私たちのことを照らしてくれているのと同じように、実は遙か昔から月の光のように、どこにいても慈悲の心で照らして見守ってくれている仏さまがいます。それが阿弥陀さまです。

慈悲とは、「慈」には苦しみを抜いてあげたいと願う「抜苦」という意味が、「悲」には楽しみを与えてあげたいと願う「与楽」という意味があり、合わせて「慈悲」と言います。

これを例えれば、それは子育てです。子どもが体調を崩した時、なんとかその苦しみを抜いてあげたいと願うのが親としての「慈」の心、子どもの好きな食べ物を用意して楽しみを与えてあげたいと願うのが「悲」の心といえるでしょう。

阿弥陀さまは、まさに子どもを思う親のような、慈悲深い心で私たちのことを照らしてくれ、そして南無阿弥陀仏とそのお名前を呼ぶ全ての人びとを、極楽浄土へと導いて下さる。そんな優しい月の光のような仏さまです。目には見えないけれど、私たちが思いを寄せて南無阿弥陀仏ととなえると、この世と極楽浄土でいつも繋がることができる。それがお念仏の教えです。コロナ禍で目には見えないものに恐怖を抱くことも多い今ですが、目には見えない極楽浄土の世界に思いを寄せて、今を生きるための安心感をいただきながらお念仏をおとなえいたしましょう。

「見上げる空に仏のひかり」このように思えると、今まで当たり前のように見ていた月がほんの少し特別なものに見えてくることでしょう。見方を変えてみると人生に彩りが増えるのではないでしょうか。

(北海道函館市 湯川寺 筒井章順)

 

弥陀の心に染まる 11月

Through chanting the nenbutsu,our feelings for Amida Buddha and the Pure Land grow stronger.

肌に吹きつける風がだんだん冷たくなってまいりました。この時期になると、暑かった夏の日々が少し懐かしく感じられます。コロナ禍でなければ紅葉などを楽しみに、行楽地へお出かけだった方も多くいらっしゃることでしょう。寒さが増すにつれ山の木々も鮮やかにその姿を変え、私たちの目を楽しませてくれます。

法然上人はこのような秋の深まりのようにお念仏をおとなえすることで、 阿弥陀さまへ信仰の心が深まってゆくさまを「阿弥陀仏に 染まる心の 色に出でば 秋の梢(こずえ)の 頬(たぐい)ならまし」 (『勅伝』 第三十巻)というお歌に託して詠まれたと伝わります。

今年はコロナ感染症の影響で一年延期されていた東京オリンピック・パラリンピックが開催され、日本人選手も多くのメダルを獲得しました。そのような輝かしい選手たちの活躍の裏で、大会が延期されたことによりモチベーションを維持できず、引退を余儀なくされた選手も多くいたことをテレビや新聞の報道で知りました。一流のアスリートであっても目標に向かって気持ちを保ちながら日々練習し、自身を高めてゆくことは難しいものなのです。

法然上人は「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」の中で、「ただ一向に念仏すべし」と、ひたすら念仏をおとなえすることの大切さをお示しくださっていますが、普段生活する中で継続して物事を行うことは大変難しいものでありましょう。ついつい「面倒くさいな」とか、「また今度にしよう」などと後回しにしてしまいがちです。これはお念仏だけに限ったことではなく、私たちが常日ごろから心の内に抱いている感情の一つと言ってもいいでしょう。気の向かないことを行うことは誰しもつらいものです。

このような時、私は次の言葉が頭に浮かびます。

「つらくとも続けていれば癖になる。癖になれば好きになる」

これは第73代横綱・照ノ富士の言葉です。初めのうちはお念仏をおとなえすることに気が向かないこともあるでしょう。しかし毎日少しずつでも続けてゆくことで習慣になり、次第に心が阿弥陀さまに向かってゆくのではないでしょうか。色濃く染まる木々のように、私たちの心の内も、お念仏によって染めてゆきたいものです。

(三重県伊賀市 西光寺 服部純啓)

 

いつも立派でなくていい 10月

Forgive yourself for being imperfect.

「人間はみんな弱いけど 夢は必ずかなうんだ 瞳の奥に眠りかけた くじけない心」(『僕の右手』THE BLUE HEARTS/詞:甲本ヒロト)。これは、私の好きな曲の歌詞です。「人間はみんな弱い」というのは浄土教の人間観にぴったりと合致します。

お釈迦さまの在世から長い時間が経過し、教えは残っていても正しく修行する者やさとりを開く者がいない時代を末法といい、苦しみや悩みなどの煩悩を捨てきれない人々を凡夫といいます。浄土教では、自身が末法を生きる凡夫であり、その弱さを受け入れ、お念仏をとなえることで阿弥陀さまに救われる存在であると自覚することが大事であるといえましょう。宗祖・法然上人が「一枚起請文」でお示しになられた「智者のふるまいをせずして」とは、この凡夫の自覚を指します。

さて、今月の標題は、「いつも立派でなくていい」です。常に自らを戒めて、善い行いを心がけるのは、仏教徒として正しいあり方です。

しかし、立派ではない弱い自分を損なうほど鞭打つことや、自分で自分を否定してしまうことは禁物です。法然上人も大切なお浄土へまいる身を自分で育み、もてなしなさいと仰せです。弱い自分を認めることと同様にさまざまな悩みを持つ他者を認めることも大切です。

皆が弱い人間(凡夫)という視点で、自分と違う境遇の人や、それぞれの理由で悩みや苦しみを抱えている人を認め、自分を育みもてなすように、他者も育みもてなすことが大切です。法然上人が自身の著書に引用された『西方要決』には念仏者のふるまいについて、「自分と違う(境遇や信仰を持つ)人もただ深く敬いなさい」「危ないときに助け合う修行仲間を大切にしなさい」と説かれています。

ところで、私自身を顧みれば、近頃は葬儀や法事などで住職に代わり、導師を務めさせていただく機会が増えました。私なんぞでという申し訳なさから、精一杯やらねばという使命感で務めております。毎朝のお勤めでは、自分自身よくやっているか、自問自答の時間です。至らないこともあります、凡夫ですから。その分、たくさん南無阿弥陀仏を。そのように過ごしております。

(東京都港区 梅窓院 中島真紹)

 

称え続けて わかること 9月

Through the nenbutsu, we can connect with those who have passed away.

「現代人は忙しい、お風呂の時間さえも短くなっている」と入浴剤のCMでいわれているように、私たちは落ち着いて何かをする時間を持てなくなっています。慌ただしい毎日だとお念仏を称える時間も少なくなっているのではないでしょうか。今は「念仏を先とす」(選択集)とおっしゃった法然上人の心に触れてみましょう。

そこで少し立ち止まって、お念仏を称える行為を考えてみたいと思います。仏教では、まず何かを思う心のはたらきがあって、次にその思いに動かされて言葉や身体に表される行いが起こると見ています。お念仏で言い換えると、称えたいという思いがあって、口に称えるという行いが生まれることになります。そうしますと、念仏を称えたいという真剣な思いが、私たちの心の中にあるのだろうか、という思いが湧いてきます。法然上人は私たちがそう考えてしまうことは百も承知なのです。「一枚起請文」に「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には別の子細候わず」と示されているように、南無阿弥陀仏と称える口の行為が先にあります。口から心へ、そして口へ、また心へと、これが繰り返されます。私は法然上人が南無阿弥陀仏と称えることによって心を作っていくように、とおっしゃっておられるように感じます。気づかぬうちに愚痴や悪口を言ってしまう、また言わなかったとしても心に思ってしまう、そういう私たちに、まずは称えることからはじめることを勧められておられるのです。

時折お念仏を称えている間には「掃除するのを忘れていた」「買い物に出かけなければ」など、あれこれと俗事に気がとられて、称えることを中断してしまうことだってあります。お念仏を称えていると煩悩まみれの自分というものがよく見えてきます。あるいは日課念仏を厳格に何遍と決めている人は、「今日は目標を達成できなかった」と自分を責めてしまうこともあるでしょう。でも法然上人はおっしゃっておられます。「急ぐ道には足遅きを嘆く。急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし」(十二箇条の問答)。お念仏を称え続けていると生まれてくるそうした嘆きを、法然上人はその心こそ大切にと、励ましておられるように思うのです。

(滋賀県東近江市 東光寺 小川法道)

 

再会に心弾ませて 8月

When you reunite with a loved one,it gives your heart a boost.

少々季節感が違う話になりますが、私の住む青森県弘前(ひろさき)市には弘前公園という桜の名所があります。桜の花が満開になるころは、足を運びたくなるほど見応えがあります。

私は「別れ」や「儚(はかな)さ」の象徴ともいわれるこの花を見ると、「この杯(さかずき)を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐の例えもあるぞ さよならだけが人生だ」という詩を思い出します。

これは文豪・井伏(いぶせ)鱒二(ますじ)が漢詩の『勧酒(かんしゅ)』を和訳したもので、特に後半は響きの良さも相まって名訳として有名です。この詩は「どんなにきれいに花が咲いても風で散ってしまうように、良いことは長く続かないもの。人生には必ず別れはあるものだ」と、親しくしていた人との別離を表したものとされています。

昨年から続くコロナ禍によって、往来に気を遣い、人と気軽に会えなくなる日々が来ることを誰が想像できたでしょうか。周りと隔絶されているような感覚になったのは、私だけではないと思います。

今春、2年ぶりに弘前公園の桜を見に足を運んだのですが、その際に思い起こした井伏の詩により、例年ただ楽しいだけだった桜の観賞が、今までになく感慨深いものとなりました。

この詩は「だからこうして会えている今を楽しんで大切に過ごそうじゃないか」というような柔和な意味も含んでいるとされます。それを知ると、これまで親しくしていた人たちと会っていた時間を無為に過ごしていたことへの軽い後悔のような、一抹の寂しさのような気持ちが生まれ、また会える機会が訪れることが一層待ち遠しくなり、楽しみになりました。

8月のお盆。未だコロナ禍である現状では、会いたい人と会うことがかなわないかも知れません。仏教には、会う人とは必ず別れる定めにあるとの意味の「会者定離(えしゃじょうり)」という言葉があります。ずっと一緒にいたいと願っても離れてしまう。だからこそ、会うことのできる機会を大切にしたいものです。

未だ重い閉塞感が続く中ですが、家族や大切な人と一緒に過ごすことを「心を弾ませ」ながら待ちわび、そして「再会」できたときには、その時間を一つひとつ大事にするように心がけたいですね。

(青森県弘前市 天徳寺 相馬恵泉)

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