西願寺(さいがんじ)は、埼玉県草加市にある浄土宗の寺院です。

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浄土宗 西願寺(さいがんじ)

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埼玉県草加市遊馬町(あすまちょう)430 

浄土宗 西願寺

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浄土宗 今月の言葉

幸せへのスタート 1月

Take one step at a time toward making next year better still.

新型コロナウイルスが猛威を振るうなか、世界規模で多くの人々が亡くなり、私たちの日常生活は一瞬にして崩れ去りました。そうした日々のなかで「幸せ」を実感することは、私自身大変難しいものでありました。

私は、昨年の四月に血栓症を患い、今も投薬による治療を行っています。自由に歩くことや座ること、日常的な動作がままならない苦しみを感じていましたが、病院のエコー検査によって発見することができました。原因が解明された時には、ホッとしたことを憶えています。後に、血栓は体質的にできやすいものであることが判り、従来の日常生活を見直す機会となりました。

私にとって闘病中は、先のみえない暗闇の中にいるようなもので、常に不安がつきまといました。そのなか、主治医の先生、家族や大学院の先生・先輩方、一緒に研究をする仲間や友人が大きな心の支えとなって病気と向き合うことができました。

宗祖法然上人は『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に示される「光明徧照(こうみょうへんじょう) 十方世界(じっぽうせかい) 念仏衆生(ねんぶっしゅじょう) 摂取不捨(せっしゅふしゃ)」の一文を月の光にたとえて、浄土宗の宗歌となっている次のお歌を遺されました。

月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ

これは、阿弥陀さまの慈悲を月の光に喩えられて、お詠みになられたものです。月の光はすべてを分け隔てなく照らしていますが、その光に気付き、月を仰いで感謝する心が起こらなければ、その月の光にあずかることができません。

それと同じように、すべてを救済(きゅうさい)しようとされる阿弥陀さまを仰いで、お念仏をとなえる日暮しを送ることで、日々お見守りにあずかり、浄土への往生(おうじょう)が約束されることから、お念仏が勧められるのです。

暗闇のなかを歩くような現世を生きる私たちにとって、阿弥陀さまとそのお浄土は尊く大きな光であり、法然上人のお示しくださった御詞(おことば)やその教えは、現世を生きる私たちの大きな心の支えであり、道標となるものです。

お念仏をとなえる日々を送りながら、日々の一つひとつが有り難いことを感じて、一年のスタートをきりたいものです。皆さま方の一年が「幸せ」に溢(あふ)れるより良い年になりますように。

(山形県山辺町 浄土寺 小笠原紀彰)

見上げる空に 仏のひかり 12月

By keeping Amida Buddha in our thoughts,

Amida Buddha watches over us.

あっという間に12月、皆さまにとって、今年はどんな一年でしたでしょうか?

私はコロナ禍の中で新しい趣味を始めました。それは写真を撮ること。カメラ片手にあちこち歩いてみると、いつもの街並みが少し変わって見えました。よく見たらお洒落な街灯、夕方の時間の美しさ、知っているようで知らなかった花の名前。見方を変えてみたら人生に彩りが増えた気がします。

「今夜はスーパームーン」とニュースで聞いたある夜のこと。寒空の下で月を撮影をする中、ふと「月っていつからあるんだろう?」と疑問に思い、調べてみると、なんと約45億年前に誕生したそうです。月が45億年も前からずっと私たちのことを照らしてくれているのと同じように、実は遙か昔から月の光のように、どこにいても慈悲の心で照らして見守ってくれている仏さまがいます。それが阿弥陀さまです。

慈悲とは、「慈」には苦しみを抜いてあげたいと願う「抜苦」という意味が、「悲」には楽しみを与えてあげたいと願う「与楽」という意味があり、合わせて「慈悲」と言います。

これを例えれば、それは子育てです。子どもが体調を崩した時、なんとかその苦しみを抜いてあげたいと願うのが親としての「慈」の心、子どもの好きな食べ物を用意して楽しみを与えてあげたいと願うのが「悲」の心といえるでしょう。

阿弥陀さまは、まさに子どもを思う親のような、慈悲深い心で私たちのことを照らしてくれ、そして南無阿弥陀仏とそのお名前を呼ぶ全ての人びとを、極楽浄土へと導いて下さる。そんな優しい月の光のような仏さまです。目には見えないけれど、私たちが思いを寄せて南無阿弥陀仏ととなえると、この世と極楽浄土でいつも繋がることができる。それがお念仏の教えです。コロナ禍で目には見えないものに恐怖を抱くことも多い今ですが、目には見えない極楽浄土の世界に思いを寄せて、今を生きるための安心感をいただきながらお念仏をおとなえいたしましょう。

「見上げる空に仏のひかり」このように思えると、今まで当たり前のように見ていた月がほんの少し特別なものに見えてくることでしょう。見方を変えてみると人生に彩りが増えるのではないでしょうか。

(北海道函館市 湯川寺 筒井章順)

弥陀の心に染まる 11月

Through chanting the nenbutsu,our feelings for Amida Buddha and the Pure Land grow stronger.

肌に吹きつける風がだんだん冷たくなってまいりました。この時期になると、暑かった夏の日々が少し懐かしく感じられます。コロナ禍でなければ紅葉などを楽しみに、行楽地へお出かけだった方も多くいらっしゃることでしょう。寒さが増すにつれ山の木々も鮮やかにその姿を変え、私たちの目を楽しませてくれます。

法然上人はこのような秋の深まりのようにお念仏をおとなえすることで、 阿弥陀さまへ信仰の心が深まってゆくさまを「阿弥陀仏に 染まる心の 色に出でば 秋の梢(こずえ)の 頬(たぐい)ならまし」 (『勅伝』 第三十巻)というお歌に託して詠まれたと伝わります。

今年はコロナ感染症の影響で一年延期されていた東京オリンピック・パラリンピックが開催され、日本人選手も多くのメダルを獲得しました。そのような輝かしい選手たちの活躍の裏で、大会が延期されたことによりモチベーションを維持できず、引退を余儀なくされた選手も多くいたことをテレビや新聞の報道で知りました。一流のアスリートであっても目標に向かって気持ちを保ちながら日々練習し、自身を高めてゆくことは難しいものなのです。

法然上人は「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」の中で、「ただ一向に念仏すべし」と、ひたすら念仏をおとなえすることの大切さをお示しくださっていますが、普段生活する中で継続して物事を行うことは大変難しいものでありましょう。ついつい「面倒くさいな」とか、「また今度にしよう」などと後回しにしてしまいがちです。これはお念仏だけに限ったことではなく、私たちが常日ごろから心の内に抱いている感情の一つと言ってもいいでしょう。気の向かないことを行うことは誰しもつらいものです。

このような時、私は次の言葉が頭に浮かびます。

「つらくとも続けていれば癖になる。癖になれば好きになる」

これは第73代横綱・照ノ富士の言葉です。初めのうちはお念仏をおとなえすることに気が向かないこともあるでしょう。しかし毎日少しずつでも続けてゆくことで習慣になり、次第に心が阿弥陀さまに向かってゆくのではないでしょうか。色濃く染まる木々のように、私たちの心の内も、お念仏によって染めてゆきたいものです。

(三重県伊賀市 西光寺 服部純啓)

いつも立派でなくていい 10月

Forgive yourself for being imperfect.

「人間はみんな弱いけど 夢は必ずかなうんだ 瞳の奥に眠りかけた くじけない心」(『僕の右手』THE BLUE HEARTS/詞:甲本ヒロト)。これは、私の好きな曲の歌詞です。「人間はみんな弱い」というのは浄土教の人間観にぴったりと合致します。

お釈迦さまの在世から長い時間が経過し、教えは残っていても正しく修行する者やさとりを開く者がいない時代を末法といい、苦しみや悩みなどの煩悩を捨てきれない人々を凡夫といいます。浄土教では、自身が末法を生きる凡夫であり、その弱さを受け入れ、お念仏をとなえることで阿弥陀さまに救われる存在であると自覚することが大事であるといえましょう。宗祖・法然上人が「一枚起請文」でお示しになられた「智者のふるまいをせずして」とは、この凡夫の自覚を指します。

さて、今月の標題は、「いつも立派でなくていい」です。常に自らを戒めて、善い行いを心がけるのは、仏教徒として正しいあり方です。

しかし、立派ではない弱い自分を損なうほど鞭打つことや、自分で自分を否定してしまうことは禁物です。法然上人も大切なお浄土へまいる身を自分で育み、もてなしなさいと仰せです。弱い自分を認めることと同様にさまざまな悩みを持つ他者を認めることも大切です。

皆が弱い人間(凡夫)という視点で、自分と違う境遇の人や、それぞれの理由で悩みや苦しみを抱えている人を認め、自分を育みもてなすように、他者も育みもてなすことが大切です。法然上人が自身の著書に引用された『西方要決』には念仏者のふるまいについて、「自分と違う(境遇や信仰を持つ)人もただ深く敬いなさい」「危ないときに助け合う修行仲間を大切にしなさい」と説かれています。

ところで、私自身を顧みれば、近頃は葬儀や法事などで住職に代わり、導師を務めさせていただく機会が増えました。私なんぞでという申し訳なさから、精一杯やらねばという使命感で務めております。毎朝のお勤めでは、自分自身よくやっているか、自問自答の時間です。至らないこともあります、凡夫ですから。その分、たくさん南無阿弥陀仏を。そのように過ごしております。

(東京都港区 梅窓院 中島真紹)

称え続けて わかること 9月

Through the nenbutsu, we can connect with those who have passed away.

「現代人は忙しい、お風呂の時間さえも短くなっている」と入浴剤のCMでいわれているように、私たちは落ち着いて何かをする時間を持てなくなっています。慌ただしい毎日だとお念仏を称える時間も少なくなっているのではないでしょうか。今は「念仏を先とす」(選択集)とおっしゃった法然上人の心に触れてみましょう。

そこで少し立ち止まって、お念仏を称える行為を考えてみたいと思います。仏教では、まず何かを思う心のはたらきがあって、次にその思いに動かされて言葉や身体に表される行いが起こると見ています。お念仏で言い換えると、称えたいという思いがあって、口に称えるという行いが生まれることになります。そうしますと、念仏を称えたいという真剣な思いが、私たちの心の中にあるのだろうか、という思いが湧いてきます。法然上人は私たちがそう考えてしまうことは百も承知なのです。「一枚起請文」に「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には別の子細候わず」と示されているように、南無阿弥陀仏と称える口の行為が先にあります。口から心へ、そして口へ、また心へと、これが繰り返されます。私は法然上人が南無阿弥陀仏と称えることによって心を作っていくように、とおっしゃっておられるように感じます。気づかぬうちに愚痴や悪口を言ってしまう、また言わなかったとしても心に思ってしまう、そういう私たちに、まずは称えることからはじめることを勧められておられるのです。

時折お念仏を称えている間には「掃除するのを忘れていた」「買い物に出かけなければ」など、あれこれと俗事に気がとられて、称えることを中断してしまうことだってあります。お念仏を称えていると煩悩まみれの自分というものがよく見えてきます。あるいは日課念仏を厳格に何遍と決めている人は、「今日は目標を達成できなかった」と自分を責めてしまうこともあるでしょう。でも法然上人はおっしゃっておられます。「急ぐ道には足遅きを嘆く。急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし」(十二箇条の問答)。お念仏を称え続けていると生まれてくるそうした嘆きを、法然上人はその心こそ大切にと、励ましておられるように思うのです。

(滋賀県東近江市 東光寺 小川法道)

再会に心弾ませて 8月

When you reunite with a loved one,it gives your heart a boost.

少々季節感が違う話になりますが、私の住む青森県弘前(ひろさき)市には弘前公園という桜の名所があります。桜の花が満開になるころは、足を運びたくなるほど見応えがあります。

私は「別れ」や「儚(はかな)さ」の象徴ともいわれるこの花を見ると、「この杯(さかずき)を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐の例えもあるぞ さよならだけが人生だ」という詩を思い出します。

これは文豪・井伏(いぶせ)鱒二(ますじ)が漢詩の『勧酒(かんしゅ)』を和訳したもので、特に後半は響きの良さも相まって名訳として有名です。この詩は「どんなにきれいに花が咲いても風で散ってしまうように、良いことは長く続かないもの。人生には必ず別れはあるものだ」と、親しくしていた人との別離を表したものとされています。

昨年から続くコロナ禍によって、往来に気を遣い、人と気軽に会えなくなる日々が来ることを誰が想像できたでしょうか。周りと隔絶されているような感覚になったのは、私だけではないと思います。

今春、2年ぶりに弘前公園の桜を見に足を運んだのですが、その際に思い起こした井伏の詩により、例年ただ楽しいだけだった桜の観賞が、今までになく感慨深いものとなりました。

この詩は「だからこうして会えている今を楽しんで大切に過ごそうじゃないか」というような柔和な意味も含んでいるとされます。それを知ると、これまで親しくしていた人たちと会っていた時間を無為に過ごしていたことへの軽い後悔のような、一抹の寂しさのような気持ちが生まれ、また会える機会が訪れることが一層待ち遠しくなり、楽しみになりました。

8月のお盆。未だコロナ禍である現状では、会いたい人と会うことがかなわないかも知れません。仏教には、会う人とは必ず別れる定めにあるとの意味の「会者定離(えしゃじょうり)」という言葉があります。ずっと一緒にいたいと願っても離れてしまう。だからこそ、会うことのできる機会を大切にしたいものです。

未だ重い閉塞感が続く中ですが、家族や大切な人と一緒に過ごすことを「心を弾ませ」ながら待ちわび、そして「再会」できたときには、その時間を一つひとつ大事にするように心がけたいですね。

(青森県弘前市 天徳寺 相馬恵泉)

どうなるかより どうするか 7月

First, act. Your feelings about it come later.

「えっ、今度の月曜から学校休み!?」。全国的なコロナ禍による休校のニュースに驚いたのは昨春のことでした。私も仕事があり、毎日子どもたちの相手をするわけにもいきません。小学生の二人の娘が、どうやって長い期間を過ごすのだろうかと心配になりました。

ところが、いざ休校になってみると、私の心配をよそに意外と楽しそうに過ごしています。長女は漫画、次女は何故か算数のワークにはまっていたようです。成績がアップしたかどうかはわかりませんが、そんな前向きな二人の姿には随分勇気づけられました。

「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」という言葉があります。ここで言う武士は「食えない」のではなく、「食わない」のです。同じ高楊枝を咥(くわ)えていても「食えない武士」であればどことなく悲壮感が漂ってきます。きっと目の前に食事が出てきたら飛びつくのでしょう。

一方「食わない武士」であれば、ある種の美しさを感じます。おそらく自ら積極的に食わないことを選んでいるからです。食えないのか、食わないのか。受動か能動か。「え」と「わ」の一文字だけで、まるっきり正反対の印象を持つのが面白いところです。つまり、自分の生き方が環境や他人によって決められるのか、自ら積極的に選ぶのかの違いです。

コロナ禍によって私たちは、さまざまに我慢を強いられてきました。休校もそうですが、不要不急の外出や外食、仕事であっても自粛を求められたのです。そうやって我慢を強いられているときは「これからどうなるのだろう」「いつまで続くのかな」と皆が不安に思います。

そんなとき、我慢をさせられていると思えばまさしく「食えない武士」で、この機会に何か少しでも前向きに取り組んでみようと思い、実践するならば「食わない武士」です。私自身は娘たちを見習って、いつもは手を出さないような読書に挑みました。また習慣にしている朝のランニングでも距離を少しだけ伸ばしてみました。

もちろん、必ずしも新しいことに取り組む必要はないように思います。それでも今、自身の行動について、それを自己の選択であると思い直したとき、「では、どうするか」と小さな一歩が踏み出せるのではないでしょうか。

(群馬県高崎市 安國寺 松岡法之)

善きことは ゆっくり動く 6月

Whatever you're facing, things are slowly getting better, even if you can't see it.

6月を迎え、今年も折り返しです。年賀状であれほど目にした「丑年」ということも、もう忘れてしまいそうです。いただいた年賀状の一枚に、「同じ水 牛が飲めば乳となり 蛇が飲めば毒となる」という言葉がありました。

現在、誰もが同じコロナ禍を生きています。蛇が毒を吐くように、ギスギスした感情を他人に向けてしまってはいませんか。このような状況だからこそ、牛が乳を作るように、人さまに対して〝善き種〟をまくような、善い生き方を意識したいものです。

善い生き方を考えたとき、私は自身の叔父のことを思い浮かべました。叔父は、普段は優しいのですが、怒ると怖い一面がありました。子どもの頃、母の実家に里帰りしたときのこと、私と妹が喧嘩を始めると叔父が飛んできて「なんばしよっとか! 兄妹は仲良くせんば」と怒られたものです。

あるとき、叔父と東京の大学でともに学び、空手部で過ごした近所のご住職から、法話の依頼を受けました。叔父が先輩、そのご住職が後輩という間柄です。そのご住職は一番後ろの席に座り、私の法話をまるで「いいぞ、その調子。がんばれ」と応援しているかのような優しい眼差しで聞いてくださりました。そして、お説教を終えると、控室で開口一番「あなたの叔父さん、先輩はお元気ですか」と声をかけてくださいました。そのとき、私は叔父のことを「先輩」と呼ぶご住職の一言に、親愛の情を感じました。叔父のことを、半世紀以上もの月日が経っても、「先輩」と呼ぶ一言の中に、二人の良き関係を感じさせていただきました。

叔父自身、半世紀を経ても、親愛の情を持って「先輩」と呼んでもらえるような言動や振る舞い、つまり〝善き種〟をまいていたのだと思います。その日、ご住職が私の話を応援のお気持ちのこもった優しい眼差しで聞いてくださったのは、その〝善き種〟のおかげである事を強く実感しました。

今日、私がまいた種が花咲くのは、明日か、来年か、はたまた半世紀後か、いつになるかは分かりません。しかし、「この〝善き種〟は、ゆっくりでも、いつかは必ず芽を出し、花咲き、明るい未来につながる」、そんな思いで、日々過ごしたいものです。

(兵庫県西宮市 観音寺 池上善哉)

立ち止まって 深呼吸 5月

Remember to stop and take a breath along the way.

皆さんは五月病という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

あらためて意味を調べてみると、5月のゴールデンウイーク後に、学校や会社に行きたくない、なんとなく体調が悪い、授業や仕事に集中できない、などの状態の総称とあります。新年度を迎え、緊張や疲れなどのストレスがピークになる頃に連休に突入し、張り詰めていた緊張の糸が切れてしまうことで五月病になってしまうケースが多いようです。

ストレスの原因は人それぞれですが、仕事や人間関係などが多いとされます。それに加えて昨今のコロナ禍により、普段の生活が制限されるなか、私たちは、知らないうちに多くのストレスを抱えながら日々を過ごしているといえます。さらに現在はストレスを発散する方法も制限されているため、自分の中にため込んでしまっている人が多いと思います。ストレスと向き合い対処していくことが、現代を生きる私たちに求められています。

コロナ禍のなか、先の見えない不安から、夜も眠れないという人もいるそうです。そんなときは一度立ち止まり、「自分を大切にする時間」を持つことが必要です。心を落ち着けるために深呼吸するように、お念仏をとなえる時間を設けてみてはいかがでしょうか。

阿弥陀さまは、この苦しみの多い世界に生きる全ての人々を救いたいと願い、「極楽浄土への往生を願い、私の名前を呼んだ者を一人ももらさず救う」とお誓いを立てられました。阿弥陀さまはお念仏をとなえた人を極楽浄土から、いつも見守ってくださっています。

浄土宗を開かれた法然上人は、「阿弥陀仏(あみだぶ)と 十声(とこえ)となえて まどろまん 永き眠りに なりもこそすれ」という、お歌をお詠みになられました。これは、いつ自分が極楽浄土へ旅立つのかは、誰にもわかりません。だからこそ、いつも臨終であるという思いでお念仏をとなえよ、とお示しになられました。

自分の人生がいつも阿弥陀さまに見守られていると思えば、安心して生きることができます。日々の生活の中で、お念仏をおとなえする時間が、自身の心休まる時間となれば、大変にありがたいことです。

(静岡県牧之原市 安楽寺 鈴木友樹)

そっと手を貸す 思いやり 4月

Anyone you meet can benefit from your kind words and deeds.

幸せになりたければ、相手を思いやりなさい――お釈迦さまは幸せになる道をこのように説かれました。

相手の幸せを願い、思いやりを持ってかけた言葉や行動は、必ず自分自身の幸せとなって返ってきます。これを「自利利他(じりりた)」といい、利とは幸せという意味です。その一方で、自らの利のみを求める自己中心的な考えを、「我利我利(がりがり)」といいます。

「他人の幸せを思いやることで自らも幸せになって生きる」のか、それとも「自らの幸せのみを考えて生きる」のか。これはその人の生き方を、大きく変える分かれ道といえます。

今年は、東日本大震災から10年の節目になります。

「こころ」はだれにも見えないけれど「こころづかい」は見える

「思い」は見えないけれど「思いやり」はだれにでも見える

その気持ちをカタチに

これは震災当時、テレビで意見広告として放送された、詩人・宮澤章二(みやざわしょうじ)の『行為の意味』の一節です。このフレーズと共に流れたそのCMは、ある高校生が混雑する電車内で妊婦に席を譲る女性の姿を見かけた後、自らも進んで階段を昇るお年寄りの手を引き、共に笑顔となる光景を描いていました。

はじめは妊婦を見かけた際に目を逸らしてしまった高校生でしたが、席を譲る女性の「こころづかい」と「思いやり」を目にしたことで、自ら進んでお年寄りに手を貸す″気持ち〟が〝カタチ〟へと変化し、共に生き、共に喜ぶ姿がそこにありました。まさに「相手を幸せにすることで(利他)、自分が幸せになれる(自利)」という自利利他の道といえます。

「迷惑になるのではないか」「老人扱いするなと言われるのではないか」とためらう人もいます。手を貸してあげたいという「思い」だけでは「思いやり」にはなりません。勇気を出してそっと手を貸すと、それだけで気持ちがカタチとなり、相手と通じ合うことができます。また、受け手がこころを開き、享受することも思いやりです。

お互いがこころを通わせ、手を貸し、手を受ける。自利利他の道を改めて胸に刻み、コロナ禍で社会的距離を取ってもなお、思いやりのある社会を目指し共に生きていきたいものです。

(広島市中区 廣教寺 上野充大)

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