希望の灯 どこまでも 12月
Good deeds you have done for others are certain to help you.
本年も残すところあと僅かとなりました。年末になると、この一年や人生を振り返る方も多いかと思います。みなさまはこれまでどのような人生を歩んでこられましたか。幸せなことがあれば反対に辛いこともあるのが人生というもの。山があり、谷があり、そして「まさか」という坂があるともいいます。いつ何が起こり、苦しみ、悩み、迷ってしまうかわかりません。人生という名の荒波の航海を続けるには導きとなる目標が必要ではないでしょうか。
岩手県大槌町には人形劇『ひょっこりひょうたん島』のモデルともいわれる蓬莱島というひょうたん型のとても小さな島があります。この島には古くから灯台が立っていましたが、東日本大震災による津波で倒壊してしまいました。そこで、復興のシンボルとして親しんでもらえるよう公募で選ばれたデザインをもとに、震災翌年の12月に灯台が再建されました。新しい灯台は赤蝋燭と砂時計の二つをコンセプトとした形で、頂きの光る部分は太陽を表し、それらは、「鎮魂の祈り」と「復興に向けて時を刻んでいくこと」を意味しているそうです。まさに、町の人々をどこまでも照らし続け、未来へと導いてくれる「希望の灯」といえるものです。
そして、この町では「希望の灯」の導きとともに、蓬莱島から正午になると人形劇『ひょっこりひょうたん島』の曲が鳴り響き、人々を勇気づけているのです。そのようにして、復興に向けて一日一日、一歩一歩、確かに歩んでいる人々の姿に私自身とても大きな勇気を与えられたのでした。
「苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけど僕らはくじけない 泣くのはいやだ 笑っちゃおう 進め!」(「ひょっこりひょうたん島」 歌:前川陽子、作詞:井上ひさし・山元譲久、作曲:宇野誠一郎)
法然上人は苦しみや悲しみに暮れる人々に心から寄り添い、お念仏のみ教えをお示しくださいました。そのみ教えはまさに私たちの未来をどこまでも照らし導いてくださる「希望の灯」です。私たちはその灯を自己のよるべとして、「南無阿弥陀仏」とお念仏の声を響かせながら、この人生を確かに歩ませていただきたいものです。
(京都府伏見区 阿弥陀寺 岩井正道)
今さらでなく 今から 11月
The moment when you make a resolution is the perfect time to start fulfilling it.
コロナ、WBC、大谷翔平。豪雨、猛暑、台風、大谷翔平…気がつけば今年も既に11月。時間が過ぎるのは本当に早いものです。
今年の1月に、日本列島を襲った大寒波は本州西端の私の住む町にも大雪を降らせ、我が家の水道管も何十年かぶりに破裂しました。夜遅くになって「シャーシャー」と水の噴き出す音に気づき、慌てて外へ元栓を閉めにいきました。これが刻一刻と過ぎていく人生の時間の流れであれば、音もしませんし止めておく元栓もありません。ボーッとしていようと、落ち込んでいようと、時間は待ってはくれません。
人生百年時代とはいえ、一人の人間が一生の間に出来ることには限りがあります。今、本当にやりたいと思うことや、やっておかなければいけないと感じることがあるのであれば、先延ばしせずにすぐ始めることです。「やらなければいけない」とか「どうしてもやりたい」という気持ちが心に生まれるのは、「やりなさい」「始めなさい」という知らせのような気がします。自分の心に響いてくる内なる声を信じ、一度きりの人生、機を逃さないようにしたいと思います。
早いもので、私も住職に就任して30年が過ぎました。就任してまだ間もない頃、現役で仕事されていたお檀家さんに「仕事を辞めたらお寺参りさせてもらいますから」とよく言われてました。あれから30年。一度もお寺参りされることなく、その方は旅立っていかれました。あの時どうしてもっと強く「時間ができてからでは遅いですよ。時間は自分で作り出さなきゃいつまでたってもお寺参りはできませんよ」と言えなかったことが悔やまれます。
「いつまでもあると思うな親と金」子どもの頃よく聞かされた言葉ですが、今や親やお金の心配よりも「いつまでもあると思うな我が命」と、いつの間にか自分のことを心配しなければいけない年齢になっていました。年齢に関係なく、もっと早く気づけばよかったのでしょうが、生きている限り遅過ぎるということはありません。人として与えられた時間に限りあることに気づき、そのことときちんと向き合い始めた時から本当の人生が始まるのではないでしょうか。日々お念仏を申し、阿弥陀さまのお迎えがあるその日まで、一日一日を精一杯生きましょう。
(山口県山陽小野田市 大福寺 神田大聖)
的が決まれば あとは射るだけ 10月
Constantly chant the name of the Amida Buddha to attain birth the Pure Land.
大谷翔平選手は、私の地元である岩手県奥州市の出身です。私は大谷選手と同じ中学です。実家も近所なので大谷フィーバーの最前線のような場所にお寺があります。侍ジャパンの世界一など、活躍のたびに地元では大変な盛り上がりでした。今では日本だけでなく世界中の人々から応援される選手になったことはとてもうれしく思います。
大谷選手は、野球を始めた小学3年生の時から「プロ野球選手になる」と目標を決めました。目標達成シート(マンダラチャート)は特に有名です。①体づくり②人間性③メンタル④コントロール⑤キレ⑥スピード160キロ⑦変化球⑧運という八つの項目について詳細に検討しました。目に見える所に張り、時には書いて、常に口にしました。それを確実に、かつ継続的に実行してきた結果、前人未到ともいうべき大リーグでの二刀流の活躍に結実しているのはご存じのとおりです。
今月の標語は「的が決まればあとは射るだけ」。けれど、私たちの人生を顧みた時、目標となる的を定めているでしょうか。漠然と健康や長生き、美しいものや、おいしい食べ物を手に入れることが目標になっていないでしょうか。
今こそ大谷選手を見習い、確かな人生の目標を決める時です。浄土宗の目標は極楽往生です。阿弥陀さまは南無阿弥陀仏ととなえたものを、阿弥陀さまの住む世界である極楽浄土に救うと本願に誓われています。極楽往生を目指し、生涯南無阿弥陀仏ととなえ続ければ、臨終の後に阿弥陀さまが迎えに来てくださります。心身ともに安らかにしてもらい極楽に往生します。その後は一切の苦しみなく、成仏させていただけます。
法然上人は「一枚起請文」の中で「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず」とお示しです。極楽往生という目標のためには、必ず往生すると信じて南無阿弥陀仏ととなえることだけが大事だと教えてくれているのです。
「的が決まればあとは射るだけ」とは、
「極楽に往生するという目標が決まれば、あとは南無阿弥陀仏ととなえるだけ」といえます。共々に念仏精進してまいりましょう。
(岩手県奥州市 真城寺 吉水晃教)
継続とはあきらめないこと 9月
継続とはあきらめないこと
To continue means to never give up.
今年も、九州や東北を襲った天災が各地に大きな被害を残しましたことは、皆さまもご存知のとおりです。ご不幸にも亡くなられた方、住まいや家財を失われた方が多くいらっしゃいます。
私たちは、自然と共に生かされています。自然は私たちに多くの恵みをもたらしてくれます。私たちの食を支える「海の幸」、「山の幸」も自然からの贈り物です。しかしながら、時に、命をも奪う大きな牙で襲い掛かることがあります。
たびかさなる豪雨や震災、特に、2011年3月に発生した東日本大震災は、目を覆いたくなる大惨事でした。死者1万6千人、今だに行方不明になられている方も数千人に上ります。それらの自然災害は、多くの命を奪い多くの財産も取り上げ、何よりも私たちの心に大きな傷跡を残しました。当時、ある住職の発案で、多くの僧侶や檀信徒と被災地に伺いました。被害の悲惨な光景に絶句し防災センターで亡くなられた方の供養をしましたが、涙が止まらなかったことをいまでも鮮明に覚えています。
しかしその一方で、阪神淡路大震災、東日本大震災、頻繫に起きている豪雨被害も多くの人々の力により復興を遂げてきました。私たちは、自然には勝つことはできませんが、皆さんと共に立ち向かうことはできます。その結果、以前より生活しやすい空間や災害に強い環境が作られてきました。小さな個人の力も多く集まることによって災害に立ち向かうことができ、″継続〟とは、″あきらめないこと〟だといえます。
私たちは、一人で生きているわけではありません。たくさんの人と共に生きているのです。辛いときや苦しいときなど困難に出会ってしまったときには、誰かに頼ってもいいのだと思います。
浄土宗の「二十一世紀劈頭宣言」(「愚者の自覚を」、「家庭にみ仏の光を」、「社会に慈しみを」、「世界に共生を」)は、法然上人を宗祖と仰ぐ浄土宗のすべての人々の幸せを願っての宣言です。私たちは、多くの人々に支えられて生きていることを改めて自覚し、精一杯この世で生きてゆければよいのではないかと思っております。法然上人のお念仏とともに。
(新潟県上越市 天崇寺 長谷川三靖)
涼しさ奏でる鈴の音 8月
涼しさ奏でる鈴の音
On hot days in the summer,refreshing breezes from the Pure Land come to cool us.
今年の夏は特別暑い、と何年も口にしている気がします。猛暑日に冷房の効いた室内と、屋外の出入りを繰り返すとドッと汗をかき、くたびれます。冷蔵庫の出入りを繰り返す麦茶もひょっとするとお疲れかもしれません。乾いた喉を潤す冷たい麦茶、日陰に吹く清々しい風、風鈴の音色などは、涼やかで心地良く、つかの間の喜びを与えてくれます。
浄土宗が拠り所とする経典の一つ『無量寿経』には、「自然の徳風、徐く起こって微動するに、その風調和にして、寒からず、暑からず。温涼柔軟にして、遅からず、疾からず」と、極楽浄土の風について示されます。その風はさまざまな功徳を具え、どこからともなく吹き始め、寒くも暑くもなく、弱くも強くもなく、なんとも柔らかで心地よいのです。またその風は、極楽浄土の空を飾る宝玉の網や樹々を揺らし、仏さまの教えを数限りなく顕し、妙なる音を響かせる、とも示されています。極楽浄土は常に過ごしやすく、仏さまの教えが美しい音色とともに自然に耳に入り修行出来るのです。
極楽浄土は一切の苦がなく、必ずさとれる世界。対してこの世は、思い通りにならない苦しみ多き世界です。私たちは人として生まれるはるか昔から、生き死にを繰り返しています。これを輪廻といい、お釈迦さまは輪廻の状態を断つ(さとる)ためのさまざまな教えをお示しになりました。
数多ある教えは全て素晴らしいものですが、私たちはお釈迦さまの時代から遠く離れすぎたため、煩悩を滅して修行を完成し、この世でさとることが出来ません。宗祖・法然上人は、阿弥陀さまにすがり、念仏をとなえることで、極楽浄土に救われ、そこでさとることが、唯一の道だとお示しくださいました。″助けたまえ 阿弥陀さま〟という心で″南無阿弥陀仏〟ととなえれば、必ず誰もが救われます。この世をもがきながら生きる、さとりとは無縁な私たちを、阿弥陀さまは見捨てず、必ず平等にお救いくださいます。
涼やかな鈴の音、心地良い風を感じた時は、極楽浄土へ思いを寄せる好機ではないでしょうか。極楽浄土は、絶え間なく快適で、喜び尽きない世界です。常日頃から憧れの思いを持ち、「南無阿弥陀仏」ととなえ続けて参りましょう。
(鳥取県鳥取市 光明寺 福田真也)
当たり前と思うあやうさ 7月
Be aware that every day consists of delicate balancing.
ある日のコンビニでの出来事。私がレジに並んでいた際、男性の怒鳴り声が聞こえてきました。「普通、客がアイス買ったらスプーンも付けるだろ!」と、レジ袋の中に、スプーンが入っていなかったことに腹を立てているようでした。このような他人の姿を見ると、「そんなに怒らなくても良いのに」と感じてしまいますが、我が身を振り返るとどうでしょう。自分自身にも「自分にとっての当たり前」を他人に押し付けてしまう瞬間があるのではないでしょうか。
私自身、他人が自分と同じ価値観を持っていると勝手に期待をしてしまうことがあります。例えば「朝に歯を磨くこと」は私にとって当たり前ですが、「朝はガムだけで済ませる」という人は私の当たり前とはかけ離れていて、「そんなのおかしい」という印象を受けてしまいます。しかし、相手を理解しようとせず、「歯磨きしなよ」と指摘することは、相手にとってみれば「余計なお世話」で、人を傷つける言動につながることもあります。
お釈迦さまは「青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光」というお言葉を遺されました。これは極楽浄土に咲く蓮の花の様子を語ったもので、「青色の花は青色の光を、黄色の花は黄色の光を、赤色の花は赤色の光を、白色の花は白色の光を放つ」という意味です。転じて、私たち一人ひとりが、それぞれ異なる色を持ち、発する光の色が異なることを表しているとされます。
お釈迦さまのこのお言葉を見ると、考え方や価値観は人によって色々であることが自然なのだと感じさせられます。気の合う友人であっても、血のつながる家族であっても、考えや好みが同じであるとは限りません。自分が「当たり前」と思っていることが他人にとっては「当たり前でない」こともあることを受け止め、相手が「どうしてそのように思うのか」と関心を持ち、少しでも他人を理解しようとする意識が大切なのではないでしょうか。
いわば、「当たり前」とは「慣れ」です。日常的に「何も言わなくても」スプーンを入れてくれる配慮を「当たり前」と思わずに感謝することは大切です。生活の中で慣れて、見えなくなった「当たり前」を見つけ、感謝することで、より温かな毎日を過ごせるような気がします。
(東京都日野市 大昌寺 杉浦靖隆)
こころ耕す なむあみだぶつ 6月
Each time you chant nembutsu,your faith in Amida Buddha deepens.
今年3月に行われた野球の世界大会であるWBCをご覧になられましたか。優勝した日本代表の活躍は、私たちに多くの感動を与えてくれました。話題の中心はMVPに輝いた大谷翔平選手。天性の才能に加え、名声を手に入れても決しておごることなく黙々と練習をこなす姿勢は、多くの人々に称賛され、長期的な視野で目標に向き合う継続力が、歴史的偉業の達成に繋がったといわれます。
よく「継続は力なり」ということわざが使われますが、何事も続けていくことが簡単ではないからこそ、多くの場面で使われるのでしょう。人の心は移ろいやすく、一度決意したことでもそれを続けるのは大変難しいものです。法然上人の御法語に、「信をば一念に生まるととりて、行をば一形にはげむべし」(『禅勝房にしめす御詞』)とあります。これは、一度のお念仏で阿弥陀さまの極楽浄土へ往生できると心に信じつつ、お念仏の修行は一生涯にわたって励みましょうという意味で、阿弥陀さまを信じる心、お念仏をおとなえする修行、どちらも継続することが大切であると示されました。
私は子どもの頃、夜の家族間のテレビチャンネル争いに敗れると、祖母の部屋で見ていました。テレビに夢中な私の横で、就寝時間の早い祖母はその準備をするのですが、毎回必ず本堂と墓地が見渡せる部屋へ移動し、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」とおとなえしてから自室に戻り、そして布団に入ってからもう一度お念仏をおとなえすることを日課としていました。
あるとき、その日課に誘われ、「阿弥陀さまやご先祖を想いおとなえするお念仏によって、いつも自分たちはその方々に見守っていただいているんだと感じ、明日への活力が湧いてくるんだよ」と教えてくれました。祖母にとっては、日課のお念仏をおとなえする一声一声に、自然と阿弥陀さまやお浄土への想いが育まれ、その想いが次の一声一声に繋がっていったのでしょう。
人の心はよく田畑に例えられます。定期的に耕さなくては、冷たく固まってしまいます。「阿弥陀さまを信じる心、口にとなえるお念仏、どちらも車の両輪のように共に回りながら往生への道を進んでいく。その中に、心豊かな日々を過ごせる」そんなお念仏の生活に励んでみませんか。
(岐阜県岐阜市 本誓寺 淺野真義)
未来は良き縁で開かれる 5月
Good encounters can lead you to a better future.
「有機農法と自然農法の違いで苦しんでるのよね」
最近、ある集まりでパーマカルチャー(永続可能な農業をもとに自然との調和を目指す文化活動)の団体を運営する知人が漏らすのを聞きました。
「え? 有機農法と自然農法って同じじゃないの?」
「全然違うのよ。有機農法は農薬や化学肥料を使わないだけなんだけど、自然農法になると草刈りもしないし、人工物や肥料も一切使わないの。だから似ているように見えても作業が違うから、一緒に畑をやっているとぶつかっちゃうのよ」と教えていただきました。
この世では農業に限らず、あらゆる分野において「似ているように見えて少し違う」ことがたくさんあります。実際、それらには多くの共通点がありますが、両者が出合ったときに、そこに着目して協力し合っているかというと必ずしもそうではなく、むしろ細かな違いを強調して対立する方が多いような気がします。「互いに歩み寄りが大切」と頭では分かっても、それができないのが凡夫の性なのでしょうか。せっかくのご縁をわずかな違いで生かせないのはとても残念なことです。
法然上人が念仏往生のための肝要を記した『念仏往生要義抄』のなかで「このたび輪廻の絆を離るる事、念仏に過ぎたる事はあるべからず。この書き置きたるものを見て、誹り謗ぜん輩も、必ず九品の台に縁を結び、互いに順逆の縁虚しからずして、一仏浄土の友たらん」と述べています。
これは、お念仏の信者にとって好ましいご縁の方はもちろん、そうでない方(お念仏を非難する人)であっても、お念仏との縁を結んだなら極楽浄土に往生を遂げ、そこで互いに友となれる、という意味です。このご法語から私たちは、その時には好ましくないと感じるご縁も、後になってみれば「あれが自分にとっては大切な縁だった」と思えることもある、ということを学べるのではないでしょうか。
とするなら、自分と価値観が違う人と出会い、拒否反応が出た時こそお念仏のおとなえ時、そう言えるかもしれません。好ましくないと感じるご縁もその場で切り捨てることなく、「善き縁になるかも」と受け止めようとすることが、融和と平和の未来を開くことにつながると思うのです。
(愛知県豊田市 弘誓院 秋田尚文)
未来は善き縁で開かれる 4月
Good encounters can lead you to a better future.
「有機農法と自然農法の違いで苦しんでるのよね」
最近、ある集まりでパーマカルチャー(永続可能な農業をもとに自然との調和を目指す文化活動)の団体を運営する知人が漏らすのを聞きました。
「え? 有機農法と自然農法って同じじゃないの?」
「全然違うのよ。有機農法は農薬や化学肥料を使わないだけなんだけど、自然農法になると草刈りもしないし、人工物や肥料も一切使わないの。だから似ているように見えても作業が違うから、一緒に畑をやっているとぶつかっちゃうのよ」と教えていただきました。
この世では農業に限らず、あらゆる分野において「似ているように見えて少し違う」ことがたくさんあります。実際、それらには多くの共通点がありますが、両者が出合ったときに、そこに着目して協力し合っているかというと必ずしもそうではなく、むしろ細かな違いを強調して対立する方が多いような気がします。「互いに歩み寄りが大切」と頭では分かっても、それができないのが凡夫の性なのでしょうか。せっかくのご縁をわずかな違いで生かせないのはとても残念なことです。
法然上人が念仏往生のための肝要を記した『念仏往生要義抄』のなかで「このたび輪廻の絆を離るる事、念仏に過ぎたる事はあるべからず。この書き置きたるものを見て、誹り謗ぜん輩も、必ず九品の台に縁を結び、互いに順逆の縁虚しからずして、一仏浄土の友たらん」と述べています。
これは、お念仏の信者にとって好ましいご縁の方はもちろん、そうでない方(お念仏を非難する人)であっても、お念仏との縁を結んだなら極楽浄土に往生を遂げ、そこで互いに友となれる、という意味です。このご法語から私たちは、その時には好ましくないと感じるご縁も、後になってみれば「あれが自分にとっては大切な縁だった」と思えることもある、ということを学べるのではないでしょうか。
とするなら、自分と価値観が違う人と出会い、拒否反応が出た時こそお念仏のおとなえ時、そう言えるかもしれません。好ましくないと感じるご縁もその場で切り捨てることなく、「善き縁になるかも」と受け止めようとすることが、融和と平和の未来を開くことにつながると思うのです。
(愛知県豊田市 弘誓院 秋田尚文)
一つの言葉が励みとなる 3月
A casual remark that you make encourage others.
「何をそんなに深く嘆くことがあるのでしょうか。昔から深い縁で結ばれているのだから、同じ蓮の上に座ることになりましょう。極楽浄土ですぐ会えます。今の別れはひと時の悲しみであって、春の夜の夢のようなものですよ。(中略)南無阿弥陀仏ととなえるなら、住む場所は隔たっていようとも、私(法然)に親しいこととなります。それは私も南無阿弥陀仏ととなえているからです」(『御流罪の時門弟に示される御詞』)
このご法語は法然上人が四国に流罪になる時、別れを嘆いた九条兼実に語ったお言葉です。この「極楽浄土ですぐ会える」という教えにどれだけの人々が励まされ、心の支えとなってきたことか。私もその一人です。
「ありがとう」
13年前、母はそう言い残して亡くなりました。本来言われたらうれしい言葉のはずなのに、その時はとてもつらく、苦しいものに思えました。その言葉にはどういった意味が込められていたのか、その時はまだ冷静に考えることができませんでした。
きっと心の中では、大切な人たちと離れたくない気持ち、不安な気持ちで溢れていたことと思いますが、感謝の言葉だけを残してくれました。それは私たち子どもに心配かけまいという親心だったのかもしれません。
それに気づいた時、改めて母の偉大さ、温かさを感じ、その場では母のそうした思いをすぐにくみ取ることができず、「ありがとう」と送り出せなかったことを後悔しました。この世では伝えることができませんでしたが、私たちにはその言葉、思いを伝える場所があります。それが極楽浄土です。
冒頭のお言葉のとおり、法然上人はこの世での別れは永遠の別れではなく、「ひと時の悲しみ」とおっしゃいました。愛する人との再会を願わずにはいられない私たちにとって、それがどれだけ心強いことか。いずれ私たちも臨終を迎え、そして阿弥陀さまによって極楽浄土に導かれ、そこで再会を果たすことができます。そのために「南無阿弥陀仏」とおとなえしましょう、と法然上人はお示しになられたのです。
いつかまた極楽浄土で母と再会できたら、まずはあの時に言えなかった言葉を伝えたいです。「ありがとう、お母さん」
(島根県松江市 善導寺 本田哲平)