西願寺(さいがんじ)は、埼玉県草加市にある浄土宗の寺院です。

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浄土宗 西願寺(さいがんじ)

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埼玉県草加市遊馬町(あすまちょう)430 

浄土宗 西願寺

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浄土宗 今月の言葉

じんわり伝わる あたたかみ 11月

Kindnesses received from others sinks deep into your heart.

私のお寺では、十二月に歳末のお参りを行っており、近所のお檀家さんの御自宅を回ります。お檀家さんから、熱いお茶を出していただくことがありますが、そのときは湯呑に手を当てただけで、寒さでかじかんでいた手が解凍されていくような感覚がいたします。じんわりとお茶の温もりが手に伝わってくるのと同時に、お檀家さんからの思いやりの心も伝わってきます。

身近にある温かみに気づけるのは、心身が凍てつくほど冷え込んでいる時です。人生の試練に直面した時や苦しみが満ちた時、心は季節を問わず冷え込みます。今、私は身近な家族が、老いの苦しみ、病の苦しみと戦っている姿を目の当たりにしており、以前にはできていたことが段々できなくなっていく家族を支える側にいます。時間や心に余裕がある時は、待ったり、優しい言葉かけをしたりできますが、時間や心に余裕が無くなると、支えるのが難しくなり、自己嫌悪に陥ることもあります。

そんな時にお念仏を申しますと、阿弥陀さまの優しい眼差しが身近に感じられます。「衆生仏を礼すれば、仏これを見給う。衆生仏を称うれば、仏これを聞き給う。衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給う」と『観無量寿経』を善導大師が注釈した『観経疏』の親縁の解釈から法然上人もお示しです。親縁というのは、阿弥陀さまに対しお念仏をとなえ、敬い、心に念ずれば、阿弥陀さまはその一声一声を受け止めて、お応えしてくださることです。阿弥陀さまも私たちがお念仏を申せば、その様子を見聞きして私たちに慈悲の御心を向けてくださいます。阿弥陀さまは常に慈悲の御心を私たちと同じ熱量で向けてくださっているのです。昼の明るい時の光より、夜の暗闇を照らす光の方がありがたいように、心が苦しい時ほど近くで親しく見守ってくださる阿弥陀さまのありがたみがよくわかります。

お念仏を申すと阿弥陀さまのその優しさを感じて、苦しみで冷えた自分の心がじんわりと温かくなっていきます。苦しみの世界を生きている私たちですが、心がつらいときはどうか阿弥陀さまの慈悲の御心におすがりし、お念仏を申していきましょう。

(岡山県久米郡 淨土院 漆間信宏)

一声一声に想いを託して 10月

The vow of attaining Birth in the Pure Land must always accompany your chanting of Namu Amida Butsu to wards Amida Buddha.

運動の秋。私の住む地域ではこの季節に運動会を行う学校が多くあります。

その中、昨年の運動会で良い結果を残せず泣いて悔しがっていた生徒に先生が「しょうがない、そんなこともあるよ! 次がんばろう!」と声をかけ励ましていたことが心に残っています。彼の悔しい思いはすぐには拭えないでしょうが、いい頃合いで心に響いて前を向ける気がしました。それから私も「しょうがない、そんなこともある!」と口にしています。口にすると気持ちを上向きにしてくれる一言です。

ご主人を亡くされたあるお檀家さんが、いつも十遍のお念仏の後に「ありがたい!」と一言付け加えておとなえをされます。「……なむあみだぶつなーむあみだぶー、ありがたい!」というふうに。私が理由を尋ねると「姑さんもそう言っていたことを思い出して、なんでだろうと真似してみたんです。そうしたら、なんだか具合が良くて癖になりました」と話してくれました。そのお話の中で、一番印象深かったのは「嫌な気分の時に、グチグチ考え続けるより、パッとあきらめて少しでも良い部分を見つけられるようになった」という点でした。この言葉も、心を上向きにしてくれるようです。

法然上人は「浄土に往生せんと欲わば、心と行との二つ、相応すべきなり」(『往生大要抄』)と示されました。

これは、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願うなら、救っていただけるという疑いの無い心と、お念仏をおとなえする修行がどちらも欠けずに一致しなければならない、ということです。阿弥陀仏の救いに出会えた喜びの心がお念仏の声を助け励まし、その声がまた心を助け励まして修行が続くのです。

この世界は良きにつけ悪しきにつけさまざまな縁によってもたらされています。私たちの思い通りになる事もあれば、どうにもならない事もあります。悪い状況で心が乱れた時こそ「しょうがない、そんなこともある!」と一言。心を助け励まし上向きにしてくれます。

先ほどのお檀家さんも、ご主人を亡くされた悲しみから、お念仏のご縁が深まりました。一声一声のお念仏に供養の想いを込め、自分もまた往生できる喜びを噛み締めながら「ありがたい!」と一言付け加えるのは、より明るい気持ちで生活できる秘訣のようです。

(福井県大野市 善導寺 大門哲爾)

充分と思い 日々暮らす 9月

Never take the tranquility of today for granted; be grateful for it always.

「今何か欲しいものはある?」7歳の誕生日が間近に迫った姪に尋ねると「何もいらないよ」と、思いがけない言葉が返ってきました。欲というものがないのだろうかと、驚いたのと同時に、自分が同じ年ごろにはあれやこれやとほしいものだらけであったなぁと、恥ずかしい記憶が思い出されました。

仏教には、少欲知足という教えがあります。欲望はできるだけ少なくし、今あるものに満足し感謝しましょうという教えです。しかしながら、生きていれば欲しいものはたくさんでてきます。お金や地位、名誉、若さなど、細かい願望まで数えればキリがありません。しかもそれら全てを手に入れることなどできるわけがないのです。

これを心得ていないと今度は手に入れられないことに対して怒りや妬みといった心を生じさせ、最終的には自分自身の心を苦しませることになります。お釈迦さまはこのようなことに心を悩ますのであれば、今あるものに満足し感謝して生きるほうがずっと心は健康的だとお示しくださいました。

『世界がもし100人の村だったら』という本があります。この本には世界の約63億人もの人々をもし仮に、100人の村に縮めたら、そこに住む人々は一体どのような生活状況に置かれるかが書かれています。

「100人のうち75人は食べ物の蓄えがあり、雨風をしのぐところがあります。でもあとの25人はそうではありません」、「100人のうち20人は栄養が充分ではなく、そのうち1人は死にそうです」、「もしもあなたが空爆や襲撃、地雷による殺戮や武装集団からの暴行におびえていなければそうでない20人より恵まれています」

ここに書かれていることを目にしても、現在の日本で生きる私たちには、なかなか実感は湧きにくいものですが、まずそのような事実を知り、考えることが大事なのです。そうすれば、朝、目が覚め、仕事や学校に行き、1日を不自由なく過ごし、夜になれば眠りに就く。こういった「あたりまえ」だと思っている生活は、実は私たちが思っている以上に有難いことだと気付くのではないでしょうか。普段何気なく過ごしている日常に感謝の気持ちをもって生活したいものです。

(宮城県仙台市 充国寺 三浦宏純)

ひとりじゃない そばにいるよ 8月

Ancestors are always looking out for you from the Pure Land. Repay them with your gratitude.

今年もコロナ禍でお盆を迎えます。数年前までは、お盆に帰省し家族や親族と会うことが当たり前でしたが、昨今はそれも難しく、コロナ禍以前がとても懐かしく思えます。お盆といえば、ご先祖さまをお迎えし、ご供養する行事ですが、親族や友人と再会することも楽しみの一つであったのではないでしょうか。

以前、あるお檀家さんと話していた時に、お盆の帰省の話になりました。いつもお盆の時期は帰省し、お墓参りの後に親族で食事会をするそうですが、コロナ禍以降は帰れていないとのことでした。お盆の帰省は子どもの楽しみの一つであったし、なにより自分もご先祖さまの供養ができないのが残念だと話しておられました。

法然上人のご法語に「衆生、仏を礼すれば、仏これを見給う。衆生、仏を唱うれば、仏これを聞き給う。衆生、仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給う」というお言葉があります。これは親が子を見守るように私たちの行いや思いを、阿弥陀さまは常に極楽浄土から見ていてくださるということです。阿弥陀さまのいらっしゃる極楽浄土は、お念仏の功徳によって往生された方々がお生まれになる場所。阿弥陀さまと共にご先祖さまも私たちのことを見守ってくださっています。

私たちはより良い将来のため、常に先のことを考えて生きています。しかし過去を振り返ってみると、今の自分があるのはご先祖さまのおかげでもあります。私たちは2人の両親、4人の祖父母、十代前は1024人、二十代前まで遡ると百万人以上のご先祖さまがおられます。もし1人でもいなければ今の自分はいません。当たり前のように生きている自分も、多くの命やご縁によって生かされている、とても有り難いことなのだと思い起こし、ご先祖さまへの感謝の念を深めていただければと思います。

まもなく、コロナ禍での3度目のお盆。まだまだ終わりは見えませんが、少しずつ元の生活に戻りつつあるような気がします。以前のように過ごせるのはもう少し先になるかもしれませんが、これから迎えるお盆には、阿弥陀さまとご先祖さまに感謝の気持ちを込めてお念仏をおとなえいたしましょう。きっと極楽浄土から私たちを見守ってくださいます。

(三重県松阪市 樹敬寺 山下大信)  

星空の彼方にあなたを想う 7月

If you think of your loved ones already in the Pure Land as you chant Namu Amida Butsu,they are sure to hear you.

 

梅雨の時期になり、しばらくすると、近所の子どもたちが保育園や学校で作った短冊付きの笹の葉を持ち帰る姿を見かけるようになります。それを見るともう少しで梅雨が明けるのかなと感じます。





七夕は平安時代ごろに中国から日本に伝わり、当時は芸事の上達を願う宮中行事でしたが、江戸時代になり五節句の一つとして行われることで現在に近い行事となりました。今では短冊に願いごとを書き、笹につける姿をお見掛けします。





先日、近所のお檀家の息子さんが、短冊にたくさんの願い事を書いていた中に「また会おうね」とあったので少し不思議に思い、その子に「誰と会うの?」と尋ねてみました。すると「おじいちゃん」と答えました。





日頃から、職人である祖父の作業場でいつも一緒にいた大好きな祖父でしたが、昨年極楽浄土へ往生されました。葬儀の際には、「おじいちゃんが喜ぶことをして生きていこうね…。一つ、明るく元気に生きよう。二つ、悪いことをしないで善いことをしよう。三つ、みんなと仲良くしようね」とお話をしました。





一周忌の際には、いつもお仏壇の前で手を合わせていた祖父の背中を見ていたお孫さんは、誰に教えられたわけでもなく、自然と手を合わせ南無阿弥陀仏とお念仏をおとなえしていました。声高らかにおとなえをする姿の尊さは、その場にいた私たちを清らかな気持ちにさせてくれ、おじいちゃんにもお念仏の声が届き喜んでいるだろうなと感じました。





信じて仰げるもの、つまり信仰を持って生活をするのと、持たずに生活するのとでは心持ちも変わってくると思います。信仰があるからこそ星空の彼方に人を想うことができますし、気持ちが豊かになるのでしょう。私達も家族や友人に大切に想ってもらえるような生き方をしていきたいものですね。





星空の彼方、はるか西の彼方にあると説かれる極楽浄土。そのお浄土にいる大切な方を想っておとなえするお念仏の声は、距離を超えて届いています。信仰を持って生きること、そしてお念仏の教えに出会えた素晴らしさを多くの方に知っていただき、日々の暮らしが穏やかであるよう、その糧としていただきたいと思うばかりです。





(東京都台東区 念佛院 中野良平)

 

星空の彼方にあなたを想う

 

 

称えるうちに 雲晴れて 6月

Vowing with a deep mind to attain Birth in the Pure Land while you chant Namu Amida Butsu naturally deepens your faith in Amida Buddha.

「紫陽花や 昨日の誠 今日の嘘」。これは、正岡子規の有名な一句で、人の心の移り変わりを花に喩えて詠んだ句です。

2年以上続くコロナ禍、ウクライナ侵攻、さらには地震や大雨による自然災害など、この時期の曇天のような世情で、心も暗くなってしまいがちではないでしょうか。そのなか、ちょっと自分の心を覗いてみるとどうでしょう。些細なことでカッと怒っていると思えば、今度は楽しく笑っている。毎日さまざまな要因によって心は振り回されています。

仏教では、特に身を滅ぼしてしまう煩悩のことを「三毒」といい、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)の三つを指します。これらの煩悩をどうしても抱えてしまうため、私たちは皆迷いの世界に生きる凡夫なのです。

月参りの際、あるお檀家さんとお話をしていた時のことです。「お念仏はありがたいですね。何かあったらお念仏をとなえながら、仏さまに愚痴を聞いてもらっているんですよ。すると心が軽くなった気がして、気付くと仏さまのお顔が目の前にあるんです。一種のカウンセリングみたいですね」と笑いながらおっしゃっていました。

よくお話を聞いてみると、ご先祖さまやお浄土のことを想ってお念仏をとなえていると、自分自身の悩みや愚痴がだんだんと頭の中を駆け巡り、さらにお念仏を続けると、自然と阿弥陀さまのお顔を見ながらお念仏をするようになったそうです。

宗祖法然上人は、念仏信者からのさまざまな質問に上人がお示しになったお答えをまとめた『一百四十五箇条問答』の中で、「どうしても心に妄念(煩悩)が起きてしまうのをどうしたらよいか」、という問に対し、「ただよくお念仏をしなさい(念仏すれば、妄念も静まりますよ)」とお答えになられました。

私たちは日々生きていくうえで、ついつい心の中を煩悩で曇らせてしまいがちです。しかしながら、一心にお念仏をおとなえするうちに、阿弥陀さまの光明が、心を明るく照らし、晴らしてくださいます。

世情や気候によって、心まで塞がってしまう時機ですが、今こそお念仏をとなえる日々を送ってみてはいかがでしょうか。

(大分市浄土寺 結城文親)

 

 

こころの声に 耳を澄まそう 5月

Maybe you are pushing your limits. It's vital to know how them and take a breather now and then.

ある雨の日のことでした。立ち寄った小さな商店、簡単な傘立てが外にありました。その傘立てを利用しようとしたとき、ある不安が心をよぎったのです。「ここに傘を置いたら誰かに盗まれるのではないか」と。

しかし、ずぶ濡れのビニール傘です。商品ひしめく店内に持ち込むのは気が引けます。仕方なくその傘立てに置きましたが、よぎった不安はすぐには消えません。商品を探しながらも、店員さんと話しながらも、外の傘が気になって仕方がありません。気のせいか雨の強さも増してきたように感じます。「傘を欲しがっている人も増えているのではないか」と、そんな微々たることまで気にかかり、妄想が膨らんでいきました。たった十数分のことでしたが、「嫌な予感」は募るばかりです。

会計を済ませ、急ぐ程もない店内を小走りし、外に出て傘立てを見ると、ビニール傘は私の置いた場所にありました。ほっとしながらも、ひとりで勝手に不安になり、安堵している自分の状況に気づきました。

もとより「傘泥棒」は私の想像の産物でした。もちろん注意を払うことは大切ですが、それによって「あの人は私のものを奪うかもしれない」「あの人は私に害を与えるかもしれない」と自ら不安の種を撒いていたのです。

日々の小さな事柄から重大な問題まで、仏教では私たちの心身を悩まし苦しめている根本的原因は等しく「煩悩」であると説きます。煩悩と一口に言っても種々ありますが、その止めどない自らの煩悩を静めて、苦しみ続ける状態から抜け出した方が「仏さま」です。反対にそのような境地から程遠く、悩み苦しみの尽きない私たちを「凡夫」と言います。

「こころの声」はとっさに出てくる「素直な気持ち」です。凡夫である私たちの「こころの声」では誤った判断や無意識に自己中心的な考えが反映されて、かえって苦しみの種になっているかもしれません。ですから、こころの声には「直感的に従う」のではなく、「耳を澄ます」ことが大切なのです。

 自分にしか聞き得ない声です。なぜ自分のこころはそのように声をあげるのか。一度落ち着いてその声に耳を澄ませてみませんか。思わぬところに気づきがあるかもしれません。

(奈良市興善寺 森田康仁)

咲いて 誇らず 4月

When things go well, don’t halt but take another step forward.

私たちの日々の生活は多くの人たちの支えによって成り立っています。家族や友人や職場の人など、身の周りにいる人たちはもちろんのこと、自分の知らないところでもあらゆるものに支えられて生かされています。



今年の冬季北京五輪で、スノーボード女子ビッグエアに出場し、日本女子最年少メダリストになった村瀬心椛(ここも)選手はインタビューで「家族や友達やスポンサーの人たちのおかげです。私だけで取れたメダルではないので、皆さんに感謝しかない」とコメント、その姿が大変印象的でした。

目まぐるしく変化する現代社会において、心にゆとりを持つことは難しいものです。時に大きな壁にぶつかったり、やっとの想いで困難を乗り越えられることもあるでしょう。私たちは思うようにいかない日々の繰り返しにより、心のゆとりは削られ、いつしか自分一人の力で世の中を生き抜かなくてはならないと感じることすらあります。



私はそのようなとき、宗祖法然上人が、浄土宗の教えを記された「一枚起請文」にある「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」の一節を思い出します。

法然上人は比叡山で学問を修めていた際、さまざまな経典の中から、「南無阿弥陀仏」とお念仏をおとなえすれば、生きとし生ける者、皆が救われる教えを見出しました。上人は比叡山のなかでも「智恵第一の法然房」と評されるほど優秀でしたが、卓越した知識をもっていても、それを人にひけらかすことはありませんでした。



このことを、今の私たちの生活に置き換えてみるとどうでしょう。社会の荒波に揉まれながら、己の信ずる道を突き進んだ先にある幸せを掴んだとしても、人をないがしろにしたり、さげすんだりしては、築き上げてきたものの、真の価値は見出すことはできません。さらには支えてきてくれた人たちの気持ちを踏みにじることへもつながってしまいます。



法然上人は、すべての人々が救われるための方法を探し、その見つけた答えに対して、ただひたすらに精進されました。だからこそ、800年以上にわたり人々の心に受け継がれてきたのです。上人の教えは今なお人々に篤く信仰されていますが、教えだけでなく、その生き方も学びたいものです。

(長野市淵之坊 若麻績憲義)

縁距離を大切に 3月

While chanting Namu Amida Butsu, you can feel the close presence of Amida Buddha and of dear ones who have gone before.

新型コロナウイルスが日本で確認されて2年が過ぎましたが、いまだ先の見えない現状が続いています。


何とも思っていなかった行動のいちいちをためらうようになったのは私だけではないと思います。感染者が減ったら実家に顔を出しに行こうと思っていても、「うつさない、うつらない」を考えるとどうしても帰郷ができませんでした。やはり家族のことや勤め先、またお参り先であるお檀家さんのご家族を考えると、リスクある行動はより自粛するようになりました。


先日、お檀家さん宅にお参りに行った時の出来事です。例年、必ずおばあさまをはじめ親子三代が集まり、部屋にはたくさんのご家族が揃います。おばあさまは必ず私の隣に座り、全員で先祖供養のお勤めをしておりました。


しかし、今年は部屋におばあさまと息子さまの二人のみで、その後ろにはパソコンが3台。感染拡大を考慮し、家族は全員集まらず画面越しの参加にしたというのです。お焼香の際には、おばあさまが画面の前に香炉を持っていき、代わりにお焼香をされていました。きっと画面の向こうのご家族は、自分がお焼香をしている思いで手を合わせたことでしょう。


いつもならお参り後に家族で外食に行っていたそうですが、それもできませんでした。寂しい気持ちを吐露しながらも、おばあさまは「画面越しでも同じ目的をもって家族全員でお参りできたことは本当にありがたい」と話されました。実際に会えない寂しさがある反面、普及し続けているネット環境や機器の発達によって、画面越しに会うことができる。離れていても心のつながりを感じることができたというおばあさまの言葉に、僧侶として、また帰郷できない一人の人間として、とても感慨深いものがありました。


さて、3月は春彼岸があります。そのお中日には、どこで誰が見ても、太陽が真東から昇り真西に沈みます。沈むその方向に、阿弥陀さまやご先祖さまがいらっしゃる西方極楽浄土があります。現在も集まるのが難しい状況ですが、場所は違えど同じ目的をもって阿弥陀さまとご先祖さまに想いを馳せながらお念仏をおとなえしましょう。


遠く離れていても、お念仏の縁によって心がつながっている。そう感じることができるはずです。

(滋賀県甲賀市 十楽寺 井口浄彦)

 

今こそ よく聴き よく遺す 2月

 

Accept advice given you now and pass it on to the next generation.

 

 

 

まだ寒さの残る2月。「コロナ禍」という言葉を耳にするようになってから早2年が経ちましたが、未だ不自由な生活が続いています。ネットでは匿名での誹謗中傷やデマといったものが話題になりました。未知のウイルスがまん延し、閉鎖的な環境の中で不安やストレスからチクチクと棘を持った心が生まれてきてしまうのも分からなくはありませんが、棘を持った者同士が触れ合ってもそれは互いに傷つけ合うばかりです。





私が勤めているお寺は寺町にあり、周囲には他のご宗派のお寺が多く並んでいます。先日、近くのお寺の前を通りかかると、掲示板にはこんな言葉が書いてありました。





「われ以外みなわが師である」





これは、小説『宮本武蔵』の作者・吉川英治の言葉で、自分以外の人や言葉、物や出来事などあらゆる物事は自分に何かを教えてくれる師であるという意味です。





やはり人は自分自身が大切です。そして、自分を包む「殻」が割れないよう堅くすることを考えがちです。しかし、少し考え方を変えてみると、反対に柔らかくする方法があることに気付きます。跳ね返すのではなく、「吸収する」姿勢です。誰からでも、どんなささいなことからでも学ぶものはあります。そして、吸収したものはまた次の人へと伝えることができます。





仏教のことばに「多聞多見」というものがあります。これは、仏の教えを多く見聞して学問があるという意味で、一般的に知恵があり博識な人のことを指す言葉としても使われます。読んで字のごとく「多くの事を聞き、多くの事を見る」ということですが、単に聞いて見れば良いのではありません。





常にあらゆるものへ学びの心を持ち、謙虚な姿勢でしっかり目と耳と心を傾けることが大切ということです。他者からの言葉へ素直に耳を傾け、受けとめることは簡単なことではありませんが、この一言一言、一期一会のご縁を大切に日々送らせていただくことで少しずつ棘が消えてゆき、心がまあるくなっていくと思います。





「今日はどんな師と出会えるだろうか」と、「多聞多見」の心を大切にして日々の生活を送り、そして得られたものをまた人に伝えていきたいものです。




(茨城県坂東市 常繁寺 船橋了照)

 

 

 

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