善き行いは ためらわず 2月
―Never be shy about doing good.―
昨年末、関東圏で働く地元の友人たちが帰省してきました。かれこれ15年の付き合いなので会うたび盛り上がり、つい時間を忘れて話し込んでしまう、気心の知れた仲間たちです。
彼らとの出会いを思い返すと小学生時代に遡ります。当時流行っていたゲーム機「NINTENDO64」。これは、4人同時にゲームをすることができる、子ども心をよく理解したもので、このゲーム機を買った現在の友人のひとりから「一緒にやろうぜ!」と声をかけられたことから、今も仲のいい友人とも出会う機会が得られました。それからお寺の境内や本堂、会館が遊び場となり、今でも集会所は決まってお寺の会館です。大人になってからは、友人たちは長期休暇のたびに地元に戻ってくるようになり、小中高時代の昔話や、会っていなかった期間に身に起きたことなど、他愛もない話をしています。
その友人らが、年が明け修正会も終わると間もなくお寺に来てくれて、話すことができました。久しぶりに会う友人もいて、積もり積もった話に花が咲き、それもひと段落すると、ふっと、ひとりが悩めるように、「自分はよかれと思って人に嫌な思いをさせてしまったかもしれない」と、話し出しました。彼はとても明るく気遣いのできる人で、結果的にその行為は間違いなく「善因善果」でした。「善因善果」とは仏教のことばで、「因」は「原因」、「果」は「結果」。つまり「善」という「原因」からは、「善」という「結果」が生まれるという意味です。
友人は「嫌な思いをさせてしまったかもしれない」ということで、「結果」がわからないために悩んでいたようです。彼のしたことは善い行為(善因)ですから善い結果(善果)を生むことになります。仏教に「善因善果」「悪因悪果」はあっても、「善因悪果」「悪因善果」など、「善(悪)」の「原因」から「悪(善)」という逆の「結果」は生まれません。彼にこのように説明をしたところ、納得してくれました。
小学生時代、ゲームをやろうと声をかけてくれた友人の「善因」は、私にとって多くの友人ができたこと、そして今日まで仲良くしてくれているという「善果」として、また「善因」には「善果」という結果しか生まれないことを伝えられたのは、阿弥陀さまが導いてくださったことと感じました。
最後に、善いことをするには、ちょっとした勇気が必要。でも、その気持ちはまわりの人を幸せにします。
南無阿弥陀仏
(福島県会津坂下町 光明寺 斎藤賢修)